殺人軽犯罪説
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
この記事は、Amebaブログのリメイクです。
人殺しは悪いことです!
いや、別にわざわざ言わなくてもそんなの当たり前だろって思うよね。でも、この「殺人はなぜいけないか」というのを説明するのって、とても難しいことなんだよ。
今回は、そんなお話をしていくね。
哲学する姿勢
いきなり、恐ろしい導入にしてしまったけど、僕は哲学的な議論が大好きなもんで、“当たり前”を疑う姿勢こそ、現代を生きる僕らに大切な精神だと思っているの。
スクロールしてすぐに人の価値観をインプットする前に、こういう問題と向き合うときは、しっかり自分の内面がどうなっているのかを観察してほしいんだ。哲学と聞くと難しそうだし、僕も専門家でも何でもないけど、こうして「立ち止まって考える」ことが「哲学する」ってことだと思うよ。
今回の記事では(問)として「殺人軽犯罪説」を唱えてみる。僕だって、殺人はとても悪いことだと思っているし、世界からなくすべきであると切に願っているんだけど、今回はみんなに「問い」を投げかける立場として、天邪鬼にもそんな説明をするよ。みんなは、対する反論を立てる形で「殺人がなぜいけないか」を説明する方法を確立してみてね。
日々の暮らしのなかでは、なかなか考えないようなことを、立ち止まって考えてみる。この記事がそんなきっかけになれたらいいな。
殺人なんて悪いことに決まっているんだから、説明するまでもないよ。
本当にそうかな? 頑張ってみんなを困らせること言ってみるぞ〜覚悟してね!
前提(示すべきこと)
「軽犯罪」って言うからには「悪いこと」だとは、認めているんじゃないかって、思ったかもしれないけれど、まったく悪いことではないと言うのは厳しいからこういう表現にした。
例えば、その人がいなくなることで、他の人に不利益が生じたり、死体や現場の処理、行政の処理などが増えて、あたり構わず行えば“迷惑行為”になり得るのは確かだからね。
でも「殺人」って、大抵の国でかなり重たい罪になっているよね。血の掃除が面倒だからって程度の悪さなら、そんな重罪は相応しくないように感じる。だから、みんなが示さなくてはいけないのは「○○だから悪い」ってだけじゃなくて、それが重罪だと言えるかということだよ。
法律の話が出たから言っておくと「死刑になるから」とか「捕まるから」みたいな法律を前提にした回答も、この問いへの回答としては欠陥がある。
もし「文字を書いたら死刑」みたいな国だったとしたら「死刑になるから文字を書くのは悪いことだ」とは言わず「その法律がおかしいだろ」って思うよね。それってつまりは、法を定めるにしても刑罰が「妥当であるもの」と「妥当でないもの」を僕らの倫理観が選り分けているってことだ。
だから「法律で決まっているから」と言いたいなら「なぜ、僕たちは殺人犯を捕まえる必要があると考えて、重罪としての刑罰も厭わないと感じられたのか」ということへの説明が必要だよ。もしかしたら、国家が何も悪くないことを無駄に取り締まってしまっているのかもしれないからね。
「殺人軽犯罪説」の理由
さて、ここからは、殺人が軽犯罪と言える理由を挙げるね。
被害者の不在
まず大きな理由として、被害者が存在しないことがある。
え!殺された人がちゃんといるじゃん!
いや、殺されたんだから、もう“いない”じゃない?
さらに問題なのは、「殺されること」は、「被害」と呼べるのかということ。
死んだことがある人の体験談は聞けないわけで「死」そのものがどんな体験なのかは知ることができないよね。天国のようなものがあるとするなら、現世は辛くて仕方ないものなのかもしれないし、「殺すこと」はそこから救い出してあげるという優しさになり得るのかもしれない。実際に、仏教では生きることを苦しみだと定義しているし、死ねば天国や楽園に行くと、そういうことを信じている人も多い。
とにかく「死」を与えることが、その人にとっての被害になるのかはわからないということ。死を与えるために、痛みを与えたり、恐怖を与えたりすることは、被害と言えるかもしれないけれど、暴行や恐喝という程度の犯罪になる。しかも殺人の場合であれば、その被害者はいなくなって、死という“最大の喜びかもしれないもの”を与えたわけだから、「軽犯罪」と呼べるんじゃないかな?
でもさ、その人を大切に思っている人はいなくなってしまったら悲しいし、辛い思いをするから、それは悪いことって言えるんじゃないかな。
そう思う人がいるのは確かかもしれないけれど、人に「嫌な思いをさせること」って、それ自体は悪いことではないんじゃないかな。たとえば、勉強をすることを嫌がる子って多いけれど、「勉強をさせること」が「悪いこと」だとは言い難いよね。
その人にとって、無価値なことをやらせて、嫌な思いをさせるのは迷惑だけれど、さっき言ったように「死」そのものが悪いものだとは言えないんだから、その人に救いを与えたというのに、それを喜べない周りの人には、教育が必要になるって考え方もできるよ。
それに「悲しむ人がいる」って理由を認めたとしても、身寄りのない人は、誰彼構わず殺していいってことになってしまうよね。なんかそれも変な気がしない?
確信犯の罪
ここで言う「確信犯」という言葉は「悪いとわかっていながら故意に悪いことをする」という新しい方の意味ではなくて「正しいと確信して犯す罪」のことを言っているんだけど、その人の中では正しいと考えていることだし、客観的に「死」が被害だとも示せないっていうのに、社会がこぞって刑罰の対象だと糾弾するのはおかしいんじゃないかと思わない?
宗教や思想の自由は、認められているわけで、特定の思想が危険であってその更生のために刑罰が必要だとか言うのなら、なぜ危険なのかを示したり、思想の自由は不必要だと示したりする必要があって、結局、示すべきことは変わっていないんだよね。
おわりに
最初は当然、人殺しなんて悪いことだって思ったけど、丁寧に論理的に示せっていうのは、なかなか難しいね。ダメなもんはダメなんだよ!
そう言いたくなる気持ちもわかる。「(答)人殺しって悪いこと?」では、僕なりに考えていることを回答として出してみるけれど、みんなも「殺人軽犯罪説に対する反論」をぜひ、ゆっくりと、しっかりと、考えてみてね。
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