剪断

樅木 霊『剪断』(1/7)


 剪断         樅木 霊

 まだ誰もいない研ぎ澄まされた教室に柔らかな朝陽が差し込む。眼鏡の表面で朧げに光る細かな埃が気になった。大きく湾曲したプラスチックは世界をこぢんまりと歪ませて、僕にチューニングを合わせた知覚を与える。クリーム色のカーテンが眩さに滲んでしまうのは、その越えられない隔たりを実感させるのに役立った。
 さほど長くもない通学路であったが、ここぞとばかりに労いを込めて、重たいスクールバッグを下ろしては横柄に自席に座ってみせる。早朝の教室だけは僕を自由にした。ここで吸い込んだ酸素を燃料に、また明日まで潜水して泳ぎ抜く。誰からも干渉されない時間は息継ぎのために必要だった。下駄箱、机の中や脇のフック。これらはずっと前から使わないことにしている。その代わりに寿司詰めになっているのがロッカーだ。使用には立体パズルを解くような思考力と忍耐力が要る。──496。ダイヤル式の南京錠を外して、外履きや教科書を押し込んだ。伽藍堂の廊下に簡単に響き渡る金属音が心地よかった。


 七時を回ってすぐの職員室には、教師でさえ数名しかいない。僕は必ず扉の前で呼吸を整えて、生徒手帳を取り出した。そこに書かれたルールに則り、四回のノックをし、例文の文言に自分の名前を入れて読み上げるためだ。

「一年二組の高平たかひらです。教室の鍵を取りに来ました。入室してもよろしいですか。」

 変声期に差し掛かった声を放り投げるのは手続き的な儀式である。どうせ言い終わるころには学年主任の内田うちだ先生が、掠れた低い声の挨拶と一緒に、目当ての鍵を渡してくれるのだ。それが早く登校するようになってから毎朝、滞りなく行われていた。けれども、今朝は教頭と名前も知らない数人の大人だけが職員室にいて、煩わしいほどに極めて早く登校する僕に対して驚いている様子であった。入室してよいかと尋ねたのは、許可をもらうためではなかったから、「どうぞ」と言われても返事は遅れた。久しぶりに入る職員室は視線が痒い。非常識な時間に登校していることを訝しげに見られている気がするのは、僕にもその自覚があるからだ。大量の鍵が並べられている壁際までせっかちに歩くなかで、最小限の動きで内田先生の白髪が見当たらないことを確かめた。
 内田先生はいつも、僕の登校よりも前に教室のある生活棟を巡回して、各階の廊下の窓を少しずつ開けておいてくれる。もちろん今日はそれもまだだったから、締め切られた十月初めの校舎は、昨日の粗野な中学生たちの残り香がじっくりと蒸され、生乾きの幼稚な臭いを孕んでいた。不思議なもので数分経っただけでそんな悪臭にも慣れつつあったが、ロッカーを開けたとき、廊下に響いた反響音がいつもより大きかったことで、改めて気になった。特にやることもないから窓くらい開けておこう。手を伸ばしても少しだけ届かない高さにある錠は、僕の低身長を嘲笑っているようで僅かに悔しい。なんとかジャンプして安物のクレセント錠を引っ掻く。窓はきっちりいつもと同じくらいの幅になるように開けた。
 狙いが定まらず何度かジャンプをしたせいで、窓から校庭がちらりと見えた。今日は金曜日。朝練があるのは陸上部とソフトテニス部、それからサッカー部だ。この時間であれば、意欲的な生徒が疎らに集まって、そろそろ始めようかなんて話している頃だろう。一時間もすれば僕を中傷するであろう彼らも、もしやそこにいるのかもしれない。少しだけ気になる。しかし、窓の高さが目の高さとほとんど変わらないため、確かめるには背伸びをし続けなくてはいけない。さらに、入学式の前にレンズを替えたばかりの眼鏡も、例年通りすっかり度が弱くなってきているから、この三階からではレンズを眼に押し当てるようにするしかない。そんな必死になってしまう姿は些か間抜けに感じて、大袈裟に息を吐いてからやめておくことにした。

 跳躍による開錠のコツを掴んで、ちょうどこの階のすべての窓を開け終わるとき、階段を重々しく登るバランスの悪い足音がした。右足を引き摺って歩く内田先生のものだ。先生がいつもやっている仕事に気が付いて、それを手伝ったというのは、優等生然とし過ぎている行為だと意識される。このまま会ってしまうのは決まりが悪く思えた。巣穴に戻る小動物の如く、せわしい足取りで教室に戻り、一生懸命に本を披く。唯一机に置いておいた、一限の理科の教科書だ。内田先生が担当の英語ではなくてよかった。文字なんて一文字も追えず、ひたすらにパラパラと頁を捲る指は震えている気がした。鼓動は近づいてくる足音に比例して大きくなる。教科書の中に顔を埋め込むようにしたままで、カラカラと扉が開いても顔は上げなかった。

天音あまねさん、おはよう。君が窓を開けてくれたのかい? ありがとうね。」

 内田先生は生徒全員を下の名前で呼ぶ。親の品性が知れるようで、不要に女々しい自分の名前はあまり好きではない。やたらと家庭での自分が想起されるせいで、学校での塑像を崩してしまいそうになることも、常に注意を払う必要がある。僕は文字にならない声で控えめに肯定しつつ、食い入るようにやったこともない実験の結果を読み込む。勉強に明け暮れて他のことになど興味のない風を装うことに終始した。そうやって可愛くない子どもで居続けようとしても、内田先生は朗らかな調子だ。今日は朝から猫がコーヒーを零してしまって遅れただとか、いつも換気しているのに気づいてくれていたことは嬉しいだとか、滑らかに話し続けるので、まったくそちらを向かないままでいられもしなかった。そして、見たこともないスポーツブランドのウインドブレーカーを着た中年男性と初めて目が合ったとき、互いに手持ちにあった言葉を一度飲み込んだかのような、ほんの少しの真空が生じる。

「いつも早く来ていて、一人でしたいことだってあるよね。邪魔してごめんね。」

 半分笑って言ったその声色は、より一層まろやかで秋めいていた。スタンドアップコメディみたいなジェスチャーと合わさると、僕には「どうしてこんなに早く来ているか説明しろ。」という詰問を誤魔化しているように感じられる。自嘲気味な後ろ姿を輪郭の結ばれない眼鏡のフレームの外へとさっさと押し出してしまう。閉じた口の中で空気を上げ下げして返答の音声を作ろうとしても、「いじめられるのを少しでも防ぐため」という本当の理由は言えない。また嘘を吐くしかないのならと、不規則な足音が去っていくのをじっと待った。