「今日はかわいいね」「いつもはかわいくないってこと?」

論証の重要性

 当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。

クリハロ

どうも クリハロ です。

今回もご覧いただき、ありがとうございます。

各種SNS(Twitter YouTube)もよろしくお願いします。


この記事は、Amebaブログのリメイクです。

「今日はかわいいね」
「いつもはかわいくないってこと?」

 という会話、聞いたことある?
 僕はこういう行き過ぎた解釈で論理関係を破壊する人と話すのが苦手なんだ。

論証の復習

 高校数学でやったと思うけれど、p⇒q という命題が成り立つというのは、p の性質を満たすもの全体の集合P と、q の性質を満たすもの全体の集合Q について、PがQの部分集合になっている(PはQに含まれる)ということを指しているんだったね。

 ここで、p の否定を ¬p で表すとすると、¬p は、集合P の補集合(外側)に含まれる元を指す。このとき、両方否定した、¬p⇒¬q  という p⇒q のに関しては、常に成り立つ性質ではないことに注意してね。
 なぜならば、¬p⇒¬q は「Pの補集合がQの補集合に含まれる」ということ。でも、PがQに含まれているとしても、集合Qの元であって、集合Pの元ではないようなものが存在すれば、その元がPの補集合の元のうち、Qの補集合に属さない元があると言えるよね。つまり「Pの補集合がQの補集合に含まれる」という性質は成り立たなくなる。

 q⇒pという、p⇒q のに関しても同様で、逆や裏が成り立つためには、集合P と集合Q が完全に等しい同値関係、つまり p⇔q でないといけない。

 逆の裏である、対偶の ¬q⇒¬p に関しては、p⇒q と真偽が一致するけどね。

ベン図で書いたらわかりやすいよね。

画像引用:理系ラボ「必要条件と十分条件の意味と覚え方【問題付き】」

アホの論理

 それにしても、なんでこんなことを言いたいかというと、人はこういう論理関係を無視して話す場合が多すぎるんだ。よくただの言いがかりに過ぎないアホの論理を見せつけてくる。

今日はかわいいね」に関しても
 今日である⇒かわいい
と言っているのであって、この裏にあたる
 今日でない⇒かわいくない
に関しては、言及していない。

あり得ないと思うけど、もしも
今日であることと、君がかわいいことは同じだね
 今日である⇔かわいい
かわいいということは今日なんだね
 かわいい⇒今日である
と言ったなら、「え!いつもはかわいくないってこと?」という推論も正しいけどね。

 あと、論理関係が狂う例でいうと、一昔前の自動車免許の筆記試験もよく槍玉に挙げられるよね。

「夜の道は危険なので、気をつけて運転しなくてはならない。」
× 昼夜問わず、常に気をつけなければならない。

「交差点の3メートル以内は停車してはならない」
× 交差点では、5メートル以内に停車してはならない

 もう頭痛がしてくる。こんな意味不明な問題が出てくるようじゃ、僕は自動車免許を取れる気がしないよ。
 「今日はかわいいね」についても、自動車免許の筆記試験にしても、物事の一部に対して言及した場合に「いや、他の面もある」というタイプの誤った指摘をする人って多くいる印象がある。SNSで攻撃的な言い合いをしている人たちにもよく当てはまる気がするね。現実ではここまで明確な命題みたいな文章では話さないから、前提としているものが違って齟齬が生じるという場面もあるのかな。

論理を見極めるって難しい

 例えば、前にもこんな光景を見たことがあるよ。
 あるコメンテーターが、母親に不治の病が分かっていた上で、不妊治療及び出産を強行することの是非について、「母親がいないのは不幸だ」と言った。これに対して、自身の妹を癌で亡くして、甥や姪とよく関わっている女性が「母親がいない人だってたくさんいるのだから、別に不幸だなんてことはない」という論を展開した。

 これは「is-ought 問題」と言われる、よくある論理の間違いだ。

 「(is)〜である」から「(ought)〜すべき」を導くことはできない。これが正しいなら「戦禍にいる人がたくさんいるから、戦争は悪いことではない」というのも正しくなる。

 そのコメンテーターが「母親がいない人は他にどんな要因があったとしても、すべてを差し置いて必ず不幸になる」と言ったのだとしたら「うちの甥っ子たちは幸せです」というのは、十分な反例になるけれど、もちろん「母親がいないこと」がもたらす効用自体にしか言及していなくて、支援の可能性がないとまでは言っていない。僕たちにできることは「母親がいないと不幸である」を認めた上で、それを補填するように周りがどんな手助けをできるだろうかと考えることだと思うけれど、その女性は冷静な議論ができずに、自分の立場を利用して誤った論理を振りかざしてしまったんだ。
 そして辛いことに、不幸な境遇を利用した感情に訴えかける話は、論理が間違っていようが、大衆に届きやすい。この場面がSNSで拡散されると「当事者に対してなんて酷いことを言うんだ!」みたいに、コメンテーターに嫌悪を示すコメントばかりがあって、僕は落胆したよ。これでもし「母親がいないことは不幸ではない」という論が世の中に波及したら、困るのは当該の子どもたちなのにね。

論理を間違える理由

 これはこの前に話した、協調の原理のせいなのかな?

 関係性の原理などによって、実際の論理構造よりも行き過ぎた解釈をしてしまうってことが多くの人にありそうだ。僕は逆にこのセンサーがぶっ壊れてて、論理関係しか汲み取らないから、コミュニケーションで問題が生じることもあるんだけどね。多くの人間に備わっている性質を僕が持っていないからって、無駄にイライラしているとしたら、僕の方に問題があると思うし、全部が全部、論理的に正しければいいってことでもないんだろうなとは感じているよ。

 でも…やっぱり…

人類よ!数学を学べ!!!

 「曲解」は、僕にとっては面倒でしかない。僕が言っていることに言葉以上の意図はないし、そんな受け取り方をしたくもない。
 この記事のテーマのカテゴリーはどうしようかと考えたけれど、数学を学ばないと論理関係もわからない危険な大人になってしまうぞと、数学学習の啓蒙のために「ひとしごと」にしておいたよ。

 会話って難しいよね。だけど、みんなが正確に論理関係を切り出すことができるようになれば、もっとそれも簡単になると思うんだ。論証の過程に瑕疵があってその論証が全体として妥当でなくなることを「誤謬」という。この誤謬を意図的に使って、相手を間違った論理で納得させる「詭弁」と呼ばれる行為もあるんだけど、僕はこれに騙されることは極めて少ないと断言できるよ。

数学を学ぶことでそういった力も育まれそうだね。
みんなが正しく論理を理解できた上で、文化的な深さも作れたらいいね。

 読解力が低下しているという指摘もある現代の日本だけれど、SNSなどでは特に詭弁に気をつけないといけないね。

 しかし、日常語っぽく話すから、聞いた人が論理を適当に扱ってしまうのかもしれない。
かわいくないなら、今日ではないね。」みたいに、無駄に複雑に対偶で伝えたら、論理的観察が必要で、内容だけが正確に伝わるかも…。

「メッセージを送らないなら、感想がないんだね。」

いや、なんか、威圧的だな…。ごめん、わからないや!またね!


最後までご覧いただき、ありがとうございました!

感想などはTwitterで受け付けております。#クリブロ