お賽銭のキャッシュレス化に悩んでみる

賽銭泥棒を許そう

 当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。

クリハロ

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この記事は、Amebaブログのリメイクです。

 みんな、初詣には行くかな?

 僕は神を信じていないし、すべての宗教的儀式をしたくないもんで…(クリスマスハロウィンなんて名前のくせに…!?初詣どころか一年通して参拝に行くことが一切ないんだけど、小さい頃に連れて行かれたことはあるなぁ。

​いちいち、ちょっと思想が強いのはなんなんだろうな…。

 僕は自分の意思で世界を捉えていきたいから、誰かに決められたストーリーを受動的に信じることなんてごめんなんだけど、仏教や神道なんかのストーリーに心の底から感激したと言う人なら、それを自分の世界観としても良いんじゃないかと思うよ。
※今回は仏教よりは神道について考えることにするね。

 しかし、ほとんどの日本人は、適当に初詣に行ってみたり、旅行で行く場所があまりないときに参拝してみたりするくらいだろうし、クリスマスなどキリスト教的な儀式も併せて、すべてを娯楽的に消費しているよね。そんな宗教のちゃんぽんも厭わない図々しさを持ち合わせながら、そのくせ郷に入っては郷に従えと言うのか、特に論理的整合性のない参拝のマナーとかは、ちゃんと守ろうとしてみるものなんだ。ただ誰かの世界観を又聞きして他者にも強要するという行為に過ぎないのに、あたかもそれが常識的な規範であって、知らない者や守らない者を「無知」だとか「罰当たり」だとか言って、排斥しようとしてみる狭量ぶり。目も当てられないね。

​クリハロくんは、すべての人が確立した世界観を築いて、それに本気で向き合っていて欲しいと考えているんだね。そのために宗教を用いるかどうかは人それぞれでいいけれど、とにかく“中途半端”が許せないらしい。

 さて、そんな大衆にとっては、暇を持て余す年末年始と初詣というイベントは、相性がいいのかもしれないとも思う。それでも、初詣で神社に人がごった返している映像なんかを見ると、背筋が薄寒くなってしまうもんだよ。そして、今年の僕は例年に増してその性格が強い気がした。心当たりは年末の情報番組でお賽銭のキャッシュレス化というキーワードを聞いたことにあった。
 おせちを食べたり、和歌を詠んだり、お正月ならではの和風な催しによって風流を楽しみながら過ごすということの面白さは、僕にも理解できる。世の人もそういう意味で初詣に向き合っているのだろうと思っていたから、そんなトラディショナルなムードを壊すような“キャッシュレス化”なんてしたら、いよいよ宗教的儀式としての論理的整合性が破壊し尽くされ、単なる娯楽化が極まってくるのではないか?と、嫌悪感を与える直観があったんだ。
 でも、何も知らないままに嫌悪感を持つというのは、この長い人生においては損失かもしれない。今回はこの件について少し立ち止まって悩んでみることで、この嫌悪感を丁寧に言語化してみることにするよ。

​いいところを見つけて、受け入れるわけじゃないんだね…!
みんなも「お賽銭のキャッシュレス化」についてどんな風に捉えたか、もしよかったら考えを聞かせてね。

そもそも「お賽銭」とは?

 いくつか説はあるものの、お賽銭は元来「神様に感謝を伝えるためのもの」だったとされているんだよね。

 かつて、農耕民族であった日本人は、自分たちで作った収穫物であっても神からの恵みであると考えていたため、その収穫物の一部であるお米などを供えて感謝を伝えることで来年の豊作を祈願していたんだ。それが鎌倉時代以降「金銭」を供える形式になっていったらしい。この転換については、神職の金儲けのためかと一蹴することもできるけれど、誰しもが農耕に携わるという時代ではなくなって、収穫物の代わりに自分で稼いだ金を“神からの恵み”であると捉えたのではないかと思うと、信仰心のあり方はさほど変わっていないようにも感じるね。
 それにしても、こうした由来や歴史にはいろいろな説があって、正確にはあまりわからないんだけど、神道のストーリーとしては、現在のお賽銭に対して「神様に日頃の感謝を伝えるためのお金」という感覚を持っていることを正しい認識としているみたいだよ。だから、お参りの際に願い事を伝えるのは、感謝どころかさらに何か請求するような行為であって、あまり行儀の良いものではないとも言えるんだ。

​お賽銭って、神社の運営資金の一部なわけだけど、そう考えると神職が参拝者がした“感謝の証”を横取りすることは問題ないのかな?

 神職は、「神意を私たちに伝え、私たちの願いを神に届けてくれる、神様と人との仲介役のような存在」と言われているから、そのお金を使って、神意と言われるものに対して応えるような行いはいいんじゃないかと考えられる気もするね。

キャッシュレス化の問題点

 さて、ここからは問題点について考えてみよう。

 非課税なお賽銭が、PayPay等キャッシュレス決済でも可能なのかといった法整備の話は、昨今クリアしているらしい。このような運用上の問題点は外的要因でどうにでもなりそうなものだけど、本当に重要なのは、「その宗教における考え方そのものに矛盾が生じていないか」という議論だよね。

​「それを行うとこんな問題がある」という話と、「そもそもそれを行うべきか」という話は、質が違うから適当に混ぜてはいけない気がするよね。新しいことを遂行するには困難があるものだけど、その困難の多さは批判の材料にはならない。批判するには、内部の論理との矛盾点を指摘するべきなんだ。

 キャッシュレス化を推し進めたい人たちが挙げるメリットとして主なものを先に示しておくね。

  • キャッシュレスの時代の影響で増えている小銭を持っていない人も、お賽銭を簡単に行えるようにするため。
  • 外国人観光客には、特にキャッシュレス化の傾向がある上、日本円を持ち合わせていないことがあるため。
  • 賽銭泥棒の被害を抑えるため。
  • 集金や両替などの手続きの手間を減らすため。

キリスト教徒の違い

​外国の教会の献金では、キャッシュレス化がかなり進んでいることなども例としてあげているのを見たね。

 それについてはまず、キリスト教における「献金」と神道の「賽銭」は意味がまったく違うということに気をつけなければいけないという話をしよう。
 キリスト教では、世界中の富はすべて神の物であるが、ほとんどすべてを人間が自由に使ってもいいと認めた上で、それでも財産の10分の1は返還せねばならないというストーリーを採用している。その上で、教会に預けられた献金の使い道も「レビ人を養うため」という教えを明記しているよね。

 しかし、前に言った通り、賽銭は個人が神様に日頃の感謝を伝えるためのものであるから、これを考えるとキャッシュレス化によって、神職に直接渡して気が済むものではないはずなんだ。それを正当化するのであれば、「ここでキャッシュレス決済をする様子を神様が見ていて、同額を賽銭箱に投げ入れる行為と同様に感謝の気持ちが伝わるのだ。」と弁解する必要があるけれど、そうなってくると、お祓いやおまもり・おみくじの販売など、その他の物理的な物を使っている宗教的行為全般の妥当性を再度保証する必要が出てくるよね。すべてオンラインで行えるか?などと言った疑問も当然生じるし、極端に言えば、そんなに“目のいい”神様に対し、神社という建物さえ必要なのか疑わしい。心の中で思っていれば十分なのではないかと思えるんじゃないかな。
 これにはどこかで線引きする必要があるよね。でも、歴史ある神道の教えに対して、「キャッシュレス決済は問題ないが、他をオンラインで行うことは問題がある」という無矛盾な説明を果たしてできるんだろうか?

​クリハロくんも、神道の教えについて詳しいわけではないから、もしかしたらこの辺は、神職さんたちの中では説明がついているのかもしれないけれど、お賽銭をキャッシュレス化するのであれば、大衆に対してもそれを説明する責任はあると思うよね。

神道における「お金」の意味

 また、神様に感謝している気持ちを表すことが大切だという旨が、どの神社のホームページにも記載されていることから察するに、お金をお供えしなければならないという決まりもないわけだから、小銭を持っていないなら何か大切なものでも置いていけば十分に神様に感謝を伝えられるのではないかとも考えられるよね。そうすると、小銭を持っていない時代が来ても、なんの問題もない。全員が収穫物を持っているとは限らない時代が来て、小銭を供えるようになったのであれば、全員が小銭を持っているとは限らない時代になったなら、キャッシュレス化をするのではなく、お金に執着せず新しい形になるのが自然だと感じないかな。

 そして、外国人の問題については、そもそも外国人はお賽銭をする必要があるのか?という問題意識を向けよう。外国に住む神道の教徒はもちろんよいだろうけれど、特に神道の教えも知らない状態で、その神様に感謝するわけがないよね。よく意味もわからない人に対して、周りがやっているからと入金を催促するのであれば、それは詐欺まがいのものに感じてくる。

 加えて、賽銭泥棒については、宗教上何の問題があるのか不明じゃないかな。もちろん、法律上は犯罪行為だから、捕まえた方がよいだろうとも考えられるけれど、それは国家の仕事であって、神社が忖度する問題でもないんじゃない?
 そもそも、お賽銭をするという感謝を伝える行為は賽銭箱に金を入れた瞬間に達成されているわけだから、それを一円残らず回収しないといけないということはないはずだよね。お金そのものではなくて、それを供えるという気持ちが大切なのだから、賽銭泥棒を神様は気にするわけがないし、もちろん運営資金をそこから少し拝借するつもりだった神職らは被害者ではない。もしも全額自分のものにしたいと考えて被害者ぶるのであれば、それはかなり傲慢な話だよね。

​適当に宗教に向き合っていたら、そこまでおかしさを感じない気もするけど、敬虔に神道のあるべき姿を考えれば考えるほど、お賽銭のキャッシュレス化に疑念が湧いてくるって皮肉な話だね。私としては、宗教による思想や行為って、なんでも深追いするとおかしさが明らかになってくるから、みんなあんまり深く考えずに「信じる」という選択をとっているんだと思うけどね。

おわりに

 ある算出によれば、明治神宮など有名な神社では、初詣によるお賽銭だけで、数億円の売り上げがあるらしい。それは集金や両替も大変なのはわかるけれど、あくまで神様と私たちの仲介役の神職なのであれば、それに見合う仕事を期待してしまうな。
 あと、これは僕の感覚的な話で、単なる妄想なんだけど、キャッシュレスになって、お賽銭の金額を“入力”するようになると物理的制約から解放されて、「今年は2025円入れてみようかな」みたいに思って、一人当たりのお賽銭の金額も増える気がするんだよね。そんなことも見越してキャッシュレス化を推し進めているんだとしたら…。

 みんなも、宗教団体の教えや行為を批判したいのであれば、一度真剣に向き合って、内部から構造を批判するようにしようね。そうやって一度悩んでから、他人の世界観と向き合い、自分の世界を構築する材料として考えるようにしてほしいな。

 ということで、次は、統一教会と夫婦別姓の話について考えてみようか。

​もうお腹いっぱいだし、なんか危なそう!
その話は、誰かに任せることにしよう。みんなまたね〜!


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