子曰、辭達而已矣。
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
この記事は、Amebaブログのリメイクです。
このアジェンダのプライオリティが高いことはエビデンスもあり、コンセンサスが取れているので、ここでフィックスさせましょう。
みたいなことを言ってしまうタイプの人、正直に手を挙げて。
まだ、ブログは始めたばかりだけど、僕は文章を書くときに、少しだけトラウマがあって、表現や表記にとても迷ってしまうんだ。
バカに見られたくもないけど
鼻につきたくもない…
僕のブログは、本文がいつもタメ口で、何事だ!と感じているかもしれないけれど、やっぱり話し言葉は身近だと思うんだよね。(プライバシーポリシーまで謎の口調)
しかし、それは“いい表現”なんだろうか
同じことを伝えようとしたところで、表現の仕方によって、僕らは多様な印象を受けるよね。きっと、その印象を書き手・話し手が、それなりに意図的に操作できることが“いい表現”なんじゃないかと今は思っているよ。
だから、話し言葉でブログを書くという表現によって、本当に皆さんが距離を感じにくいのだとしたら、僕としては成功なんだ。ネット社会においては、特に「言葉の表現」はその人の外観そのものになり得るし、書いてある内容はもちろん、書き方・話し方からも「その人らしさ」が滲み出る。
今回は、僕の「言葉との付き合い方」がどう変わって来たかについて、話してみるよ。
衒学的俺TUEEE
まず、最初に言っておくと…
小学生の頃の僕、ありえないレベルで
すっっごい 生意気 だったの!
同級生からも、大人からも全員から嫌われて当然な性格だったような気がするから、あんまり詳細に書くとブラウザバックされそうで怖いんだけど……。まあ、昔のことなんで、笑っておくれ。
今も結構、生意気だと思うんだけど…
やめてください…。正直そんな気もするけれど、今では広い心を持ちたいと思っているんだよ。
まあ、それはいいとして、小学生の頃の僕はとにかく「頭がいい」と思われたくて仕方なかったから、作文なんて知識をひけらかすための舞台でしかなかったんだ。
知識をひけらかすことを衒学と言ったりするけれど、そんな文章を作るために、幼きクリハロくんが打ち立てた衒学的文章の作り方を、恥ずかしながら紹介しよう。
- 漢字の量を無理やり増やす。
(地名、動植物名、接続詞等は漢字) - できるだけ難しい漢字を使う。
(旧漢字も積極的に使う) - 動詞はできるだけ熟語にする。
(うなずく→首肯する など) - 覚えたての語彙は必ず入れる。
(辞書を読んで難しい語彙を集める)
ということで、小学生のときに実際に書いた音楽鑑賞の感想文をこの前見つけて、凄まじく気持ち悪かったから、少し引用してみようかな。
…碧落を彷彿とさせる音響から、軈て到來する印象派繪畫の時代の黎明を想起為る。下屬調への転調は徐ら聴衆に鬼胎を与える様で、粛然たる第二楽章の訪れを慇懃に拵えて居る。…
引用:小学五年生の音楽鑑賞の感想文
うぅ、クリハロくんのライフはゼロよ。羞恥心がとんでもないや。この文章に対して確かに言えるのは、絶対に“いい表現”ではないってことだね。
意味が全然わからないけど、この人とは、話したくないな。
そうなんだよ。こういった文章って、難しい言葉を知っていて、難しい漢字を書けるということは伝わるかもしれないんだけど、内容はまったく伝わらず、かつ悪印象まで持たれるなんて、愚かそのものだよね。それに、これを書けるようになるのは、小学生にしてはなかなかたくさんの勉強が必要なのに、悪印象を持たれるために、一生懸命旧字体とかを覚えているなんて「無駄」でしかないよ。
こんなのを書いて、読めない相手には誇らしげに説明するクリハロ少年だったけれど、あるとき、お母さんに言われた言葉に、大きなショックを受けたんだ。
「子どもの頃は無駄に難しい言葉を使いたがるよね…。」
え!頭よく見られようと頑張ってたのに…子どもっぽいのか!
と、トラウマ級の衝撃を受けた記憶があるよ。なんてことのない一言だったけれど、それによっていい文章表現とはなんだろうか…って考えるきっかけになったんだ。
辞は達するのみ
『論語』にある孔子の言葉に「辞は達するのみ」というのがあるんだけど「辞」とは「ことば」のことで、つまり「ことばは相手に届くだけ」って意味なんだよね。
これは「言葉は相手に伝わりさえすればそれでいい」という意味にも取れるかもしれないけど、僕を変えてくれた教えは「言葉は相手に伝わらないと意味がない」という解釈。
当然のことだけど、人に見せるために書いている文章は、自分の考えたことを届けるための手段でしかないんだよね。相手に伝わらなければ意味がないのに、衒学という別の目的のために利用する人というのは「ことば」の意義を理解していない愚か者だと感じられたんだ。
じゃあ、頭をよく見せようと思った結果、かえって「自分は言葉の意義も理解していない人間だ」という無知さを表現していたんだね。
そんなにストレートに言われてしまうとどうしようもないけれど、確かにその通りだね…。
とはいえ、“伝わる文章”ってなんなんだろう?
無駄に難しくすることは、確かに愚か者のすることだけど、簡単にすればするほどいいかと言うと、そうでもない気がするんだ。
辞書の説明や数学の証明なんていうのは、事実がしっかりと正確に、そして簡潔に書かれていることが素晴らしいだろうけれど、僕らが普段書きたい文章ってそうじゃないよね。事実以上に心の動きや自分自身と対象との距離感、熱量、経緯なんかを読み手に伝えていきたい。
そう考えると、レトリックなどの技法も大切になるんじゃないかな。
理解できるように内容を書くことはもちろんだけど、他の媒体からではなく、僕という人間の文章からそれを得たことに対する満足感や唯一性がないと、わざわざ僕が記す意味がないよね。
「ことば」は乗り物
僕はよく他の人の数学の授業だとかを見て、
この授業で初めて出会ってしまったら、
こんなに面白い数学を、苦手になってしまわないかな…
っていう「もったいない」って感情を抱いてしまうことが、たまにある。これと同じで、面白いことを伝えるからには、ちゃんと面白いまま伝えたい。
だから、中二病みたいな文章を書くのはやめて
- しっかりと伝えたい内容を絞りながら、整理してまとめる。
- できるだけ簡潔に、相手にとってわかりやすい表現にする。
- 自分の人間性や具体的な経験などを取り入れるようにする。
- もっと読みたいと思わせるように、期待できる文章にする。
- 正直な心の動きを表現するための余白を残した構成にする。
というように、ことばを単なる乗り物だと捉え、その中身を重要視した上で、そこにどれだけ「僕が書く価値」を積み込めるだろうかと考えるようになったんだ。
そうやって気を付けながら、作家のレトリックなんかも少しずつ学んでいくことで、中学校に入ると読書感想文で最優秀賞を取ることもできたよ。
あまり人の気持ちを理解することも、自分の言いたいことを話すことも苦手な僕だけど、よく考えて文章にすることで、少しずつ「自分をわかってもらえる嬉しさ」を感じられて、自慢げに衒学に精を出していた頃より、多くの幸せを感じられるようになったんだ。
それはきっと「ことば」に乗って旅することで見えた素敵な景色だね。
自閉症くんの話し方
ここまで「書き方」について話したけれど「話し方」には触れなかったね。もちろん効果的な話し方もあるし、教育者を目指している身としては、練習中ではあるんだけど「自閉症の人は話し方に特徴がある」と、よく言われているんだ。
個人差はあるけれど、よく挙げられるのは
- 相手に合わせた話し方が難しい。
- 抑揚や身振り手振り、表情などの変化が少ない。
- 厳密な表現を好み、曖昧な質問には答えられない。
- 内容をそのまま伝えたり、そのまま受け取ってしまう。
- 難しい言葉や書き言葉を用いて、話すというより語る。
- 些細なことを気にして結論に辿りつかない。 など…
僕自身は意識して練習してきて、少しは改善している部分もあると思うんだけど、例に漏れずしっかりと当てはまっているって自覚があるよ。好きなことには熱が入って、相手の声を遮るほどにドカドカ喋ってしまうし、関係のないことを口にしないように心掛けても、細かいことが気になって相手の話を全然聞いていないなんてこともある。
自己中心的で酷いやつだって思われるかもしれないけれど、これでも頑張っているんだよ…。僕と話して嫌な思いした人がいたらごめんね。
自分ができないからこそ、強く感じるのかもしれないけれど、言葉は乗り物だからこそ、オンボロの車に乗っている人がいたとしても、その中に乗っている人格まで悪いって決めつけるのは、よろしくないと思う。もちろん、素敵な表現をしたいと練習するのはいいことだよ。でも、それをしない人がいたとしても、悪いとは思いたくないな。
おわりに
今回は僕の「言葉との付き合い方」を紹介したけれど、別に人それぞれ付き合い方は自由だと思うよ。漢字を多用したりする人を悪く言うような構成にしてしまったものの、本当はそういう人がいたって、その奥にある心を覗けるようになりたいよね。
それに、僕だって今でも作品の世界観を演出するのに、詩や歌詞とかで難読漢字を使うこともあるから、知識自体は無駄ってこともない。
大切なのは、その「ことば」が持つ意図を理解し、自分が達成したい目的に応じて適切なものを選ぶことなんだね。
それが難しいんだけどさ…
ねぇねぇ、ところで、この記事の文章は、適切に書けているの?
……うぅ、細かいことを気にしない練習だ!








