スポーツと戦争
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
この記事は、Amebaブログのリメイクです。
パリオリンピックが開会したね。
世界遺産だらけの美しい街並みとスポーツ文化の融合。自由・平等・博愛を掲げた愛の溢れるフランスで、平和の象徴となるオリンピックは、この戦争や紛争が続いている現代において、どのように表現なされるんだろう。僕はオリンピックの開会式や閉会式をいつも楽しみにしているんだ。
今回は競技場を飛び出し、セーヌ川をその舞台とすることで、ルーブル美術館やオルセー美術館といった河岸に並ぶ由緒正しい“芸術の群れ”をその背景に使えてしまうということだったから、他国には到底真似できない粋で特別な演出が期待できたよね。
クリハロくんには、あまり体を動かすイメージがなかったから、スポーツ観戦が好きだなんて知らなかったな。
いや、申し訳ないけど、楽しみなのは国家としての芸術的表現となる開会式や閉会式だけだよ…。むしろ、僕はスポーツ観戦が異様に苦手なんだ。
もちろん、自分がやるのも全く好きじゃないし…運動神経皆無なのだ…。
スポーツには単純に興味がないということもあるけれど、スポーツ観戦の意義をまず理解できないんだよね。僕は意義がわからないものを「なんとなくで楽しむ」ということが全くできないもんだから、スポーツ観戦を楽しむためにはいくつもの壁があるように感じてしまうんだ。
だけど、家族はスポーツ観戦が大好きでね、オリンピック期間は居間にある複数の画面で色々な競技が流れ続けているような家庭なんだよ。
本当にうるさくて狂いそう…。
今の僕にはその気持ちが全然理解できない。でも、彼女が熱狂している様子は他に類を見ないほどに楽しそうだから、僅かに憧れもあって、僕も納得してスポーツという文化に関心を向け、スポーツ観戦に興じてみたいんだ。
何でも考えまくるのは、僕の良いところであると同時に、悪いところでもある気がするから、今日はスポーツに対する嫌悪感の内訳を省みつつ吐露してみようかな。その上で「スポーツ大好き人間になるための無矛盾な価値観」を教えて欲しい。
もしよかったら、色々な角度からのアドバイスをよろしくお願いします。
運動の意味
僕自身はあまりやる気になれないんだけど、体を鍛えるなど運動をすること自体は意味があると思えるよ。運動にはストレス軽減、リラックス効果、脳の活性化、筋力向上による今後の運動効率の強化などの効果があるから、したい人がいるのは頷けるね。
それを踏まえて、僕は運動というものの意義は「生活に使う肉体の性能の向上を目指すため」もしくは「単なる娯楽のため」にあると感じるんだけど、あまりにもやりすぎると怪我するでしょ。
怪我ってどう考えても体や思考に対して良い効果はないだろうし、アスリートの人たちは、どんどん怪我をしながら「誰かに勝つこと」や「前の自分よりほんの少しだけ上手くやること」を目指し続けているよね。
それは、効率的な生活のために肉体の性能の向上を目指しているとは言い難いから、単なる娯楽のために運動をしていると言えると思う。
二元論的に考えるのはどうかと思うけど、それに反論するならその二つ以外の意義を考える必要があるし、とりあえず娯楽と思っておくか。
スポーツ大会の意味
娯楽も上手くなりすぎれば、そのスキルの希少性を社会が面白がって報酬を渡すなんていう場合が出てくるだろうね。これは例えば、さまざまな演芸なんかも同じ状態にあると思う。
でも、スポーツの特異な点は「観客のためにはやっていない」ということ。体を使うことが極めて上手な人たちが集まって、僕たちもやったことのあるようなスポーツを超絶技巧でやってみせる。そんな面白い“ショー”を作ろうみたいな心づもりで、八百長していくのはまだ意味がわかるんだけど、ただ一生懸命に大人が体を使って遊んでいるところを見るのは、「何が楽しいんだろう?」とどうしても思ってしまうんだ。
そういうショーとしての意図がないのであれば、人体実験的な意味があるんだろうかという風にも考えたことがある。例えば「人間は100mを最速で何秒で走れるんだろうか?」みたいな問いに対して、国際的な力を用いて実験してみるというような意味。
うーん、だとすると複雑なルールのスポーツの意味って何だろう。
そうなんだよね。それに現代の科学では、多くのスポーツに対して、記録等の理論値を計算することもできるようになっているし、実際の人間でやってみたいなんて、そんな道楽的な科学者の問いに対して、アスリートは人生を懸けてチャレンジしたいと思うものなのかな。
応援の意味
その上で「観戦」について考えてみよう。
僕は「何を面白いと思っているのか」とスポーツ観戦中の家族に尋ねてみることが多いんだけど(もちろん、ものすごく面倒に思われてしまうんだけど)「肉体のスキルの希少さを見ることが面白い」とか「人間がどれくらいのタイムで走れるか気になるから」のような回答をされたことはなくて、大抵は「応援している人に勝って欲しい」なんて言われるんだよね。もちろん、楽しみ方は人それぞれかもしれないけれど、他人の遊びをわざわざ見て、勝とうが負けようが何も変わらないのに応援してみるということに面白さを感じるというのは、お金でも賭けているのか?と思えてしまう。
しかも、なぜこの人を応援しているんだろうかと訊くと、大抵は「日本人だから」って程度にしか答えてくれないんだよ。
大してどんな“戦い”をしているかよく分からなくても、日本人を応援する。
うん? 世界大戦か?
多くの人々は、同じコミュニティに属している方の人間に対して、自分と直接的に何の関わりもなくたって「一緒に戦っているんだ」というような身勝手な感情を抱き、いわゆる“応援”をする。時にブーイングという名の暴言さえ吐きながら、応援の文化は素晴らしいことなんだと、特にスポーツを通して幼少の頃から教育されて来たように思うんだ。この肥大化した仲間意識を持たせることこそが戦争の練習であって、本当の意味で個人を尊重できないようにする同調圧力や、異民族に対する攻撃意識を芽生えさせるんだと思えてしまう。
オリンピックは、世界中の人々を集め、ある人が好きなことを発表し、みんなで鑑賞しつつ讃え合うみたいな活動だったらダメなのかな。どうしても擬似的に戦争を模した“勝敗を付ける競争”でないといけないだろうか。もしあなたが「そうじゃないと面白くない」と簡単に答えてしまうなら、もう一度胸に手を当てて考えてみて欲しい。
戦争の練習と平和の象徴
観客の存在とは何を示しているのだろうか
アイデンティティはコミュニティのなかに探すものではなく、単独で誇りを持って確立するものでなくてはいけないと僕は思うよ。
スポーツ中継が流れるたびに、こんなことばかり言っているクリハロくん、面倒くさいだろうけど、よく家族もスポーツ観戦を好きでいられるね。
それは確かにそう。きっと、このオリンピック期間も何台もついているテレビのうるささに耐えられなくて、しばらく部屋に籠ることになるんだろうな。








