苦しむ自由と美徳
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
この記事は、Amebaブログのリメイクです。
いつ読んでも問題がないように、このブログでは季節感を感じない文章にしているつもりなんだけど、この記事を書いている7月初旬…
暑すぎる!
体が溶けて無くなってしまう!
これを出すのは8月の予定だけど、もっともっと暑くなっていそうだなぁ。
暑さ指数(WBGT)
今年から、熱中症特別警戒アラートが実施されるようになって、暑さ指数と言われる、WBGTの値を気にする人も増えたんじゃないかな。
太陽照射のない場合
WBGT=0.7×自然湿球温度+0.3×黒球温度
太陽照射のある場合
WBGT=0.7×自然湿球温度+0.2×黒球温度+0.1×乾球温度

運動を中止するとか、いろいろな注意喚起されているんだね。
工事現場のような外での仕事をしている人は、こういう情報をしっかりと取り入れて活かして欲しいし、仕事以外でも公の場所ではこれを利用して、すべての人が安全に過ごせるためのルールを作っていって欲しいね。けれど、日常生活においてはどれくらい気にして生きるべきなんだろう?
みんなは、友だちと遊ぶ約束があったとして「今日は熱中症警戒アラートが出ているから休むね」って報告できるかな? 一対一で遊ぶならまだしも、メンバーの人数が必要だとか、そういう場合に「暑いから」ってだけで休める?
本当は社会規範として「暑いときは不要不急の外出をしない」ということを、善しとするような常識を作っていきたいけれど、現在の社会では、まだなんとなくそれだけを理由にするのは申し訳なく思ったり、そういう主張をする人に対して少し嫌悪感が生まれるという人も居そうな気がするよね。
「暑さ」を取り巻く常識のあり方
それを考えてみると、僕は2020年ごろのコロナ禍の社会を思い出したんだ。
例えば、熱がある状態で外出したり、マスクをしないで街にいると、これを悪だとするような通念があって、それが深刻化していくコロナ禍の事態によってどんどん促進されたのは記憶に新しいね。
ただ、実際問題、熱中症特別警戒アラートについては、同じように「外出してはいけない」ってレベルの社会通念として広がることはないだろうなと、個人的には思うんだ。命に関わるという点では同じなんだけど、その行動が“他人の命”に関係があるかという点で、社会の目が厳しく取り締まりたいかどうかという意欲に差が生じるのは自然なことだと思う。
でもこの状態って、自由な意思を持つ個人が、自由に判断を下せることを前提としているよね。いかなる状況でも自由を重んじたい僕としては、自分で死にたいと思っているのなら死んでも良いし、それも自由として大切にしたい。コロナ禍の方がむしろ異常で、現在の暑さを取り巻く社会通念はそんなに悪くないと思うんだ。あくまでも、判断を個人が適切にできるようにするための単なる情報として、この警戒アラートを捉えていって欲しいと思うの。
要は、こういう明確な基準を国のような権威が設けると、往々にして「熱中症特別警戒アラートが出ているのに外で運動をする」みたいな“従わない人”を、執拗に非難する者が現れるけれど、僕としてはそうやって個人的な権利を阻害するのは好ましくないと感じる。(「それでも休ませない会社」みたいな個人ではなく「組織のあり方」を非難するのはわかるけどね)加えて、そういう単純な愚行権だけじゃなく、もう一歩踏み出して「非難する」という僕とは意見を異にする言動さえも、自由な権利として尊重したい。
そうなると、僕は「やる人がいてもいいし、やめろと言う人がいてもいい」という、喧嘩上等な社会を望んでいるようだよね。誤解してほしくないから、ここでいう「喧嘩」は誹謗中傷や暴力ではなく、知性ある人間としての批判的態度のことだと一応改めておくけれど…。
そんな社会で一番重要になるのは、さっきみたいな友だちの誘いを「自分が行きたいかどうか」「自分の体が問題ないかどうか」という誰に縛られることもない意思だけで、乗るも断るもできるというような屈強な主張を、みんなが適切な方法でできるようになることだと思うんだ。同調圧力や相手からのいかなるプレッシャーがあったって、強制はされずに自分の責任で決断を下せるようにならなくてはいけない。
そうじゃないと、社会が「ある誰かの主張」に傾倒し、それを盲目的に大衆が信じていれば、命を落とさなかったなんて人がどんどん生まれてしまう状態に陥って、自由を阻害する自粛警察が必要になるし、発展のエネルギーの源である「考え方の多様性」が潰れていってしまうと思うんだよね。
クリハロくんはそういう自己主張が、得意というか、むしろ好きなのかもしれないけれど、世間の意見に流されないで、自分の意見をしっかりと述べることって、大切だとは思うものの、なかなか難しいよね。
そうだね。難しいことかもしれないけれど、みんなが自由に生きるためには、他人も押し並べて自由でないといけないんだ。何か意見を言ったときに、それを脅迫のように感じてしまう“弱い人”がいると、意見を述べること自体に問題意識が向いてしまうこともあるもんね。
自由の担保のために、逆に誰もが「自由でいることを強制される」必要があるというのは、どこか矛盾しているようだけれど、多分これを叶えるのが教育なんだよね。
結局、僕たちは右も左もわからない生まれたての白紙の状態から、社会に適合するためのデザインを教育によって描かれて、社会のために信仰させられた倫理観を通して、世界を見せられるんだ。こう聞くと恐ろしさもあるけれど、それだけ力は強大だから、次世代の子どもたちへの教育目標とその課程は、歴史的背景をすべて無視した理想を元にすれば、しっかりとその理想が「国民性」や「常識」のような通念にまで膨れ上がって、未来の社会に表れるはずなんだ。
だからこそ、教育者は現在の常識もゼロから真剣に見つめ直す力を持っていて、他者の自由を尊重できて、それを善いと思える人間でないといけないと思うんだよね。
ねぇねぇ、暑いって話と全然関係なくなってきてない?
ちょっと、僕が熱くなりすぎたね…。このままでは、みんなが僕の熱量で熱中症になってしまいそうだし、少し落ち着こう。みんなに命を大切にして欲しいと思っているだけなんだけど、そのためには、社会規範を明確化するための議論は重要なんだよね。
「暑さ」への価値観を見直そう
後半は「そもそも、みんなの暑さに対する価値観はどうあるべきだろう」と考えてみるよ。
みんなは暑い夏って好きかな?
僕はとんでもなく暑がりで、もう4月くらいから冷房を掛けてしまうし、寒ければ寒いほど好きなんだけど、夏の開放感や海や山なんかのレジャーが好きだと言う人がいるのも頷けるよ。基本外に出たくない僕だけど、季節を感じる趣は大切にしていきたい気持ちはある。
でも、熱中症は命にかかわることだし、もっと危機意識を持って欲しいなとも思うんだよね。というのも、部活動の練習中に水分補給をしてはならないみたいなことが当たり前だった時代もあったように、なんとなく「辛いなかで頑張ること」に美徳を感じている人が現代でもいるような気がする。
昔からこういうのは、唾棄すべき誤った努力の見せびらかしだと思っているんだ。
- 怪我に負けないでスポーツをする
- あまり寝ていないことを自慢する
- 残業をしている人が偉そうにする
- 貧困層の育児を感動の物語とする
- 下肢が不自由な人に登山をさせる
クリハロくん、どうしたの!?
24時間テレビの悪口言ってる?無駄に敵を作るもんじゃないよ。
そんなこと一言も言っていないけど…。24時間テレビといえば、この暑いなかで行われるマラソンも気になるよね。ちなみに、あれってみんな感動するもんなのかな?
この記事でも言ったことがあるように、僕はスポーツ観戦が全く好きじゃないもんだから、極端に魅力を感じられないのかもしれないけれど、アスリートでもない芸能人を炎天下で一日中走らせることは、故意に虐待をして苦しい状態を作り出すことで「辛いなかで頑張ること」という大衆が大好きな美徳を無理やり演出しているようにしか感じないんだ。
あれはチャリティランナーだから、募金活動の広告塔として選ばれたことに誇りを持って望んで走っているんじゃないの?
だとしたら、それはやりたくて趣味で走っているということ?
皇居の周りに行けば毎日のようにたくさんのランナーに会えるもんだけど、それを見ていたって感動しないでしょ?辛いことをさせたいわけじゃないとしたら、その芸能人の得意なことをやらせる方がいいんじゃないかと思うんだけど。
クリハロくんはうるさいな〜。何年も続いている伝統が軽蔑に値するものであったとしても、無批判に後継させていく行為そのものに感動が呼び起こされて、愚昧にも幸せになれる視聴者だっているんだからいいじゃん。
文化的虐待
辛い=偉い
この意識が、熱中症特別警戒アラートをどう捉えるかという話以前に、暑さの危険性そのものを美化してしまって、詭激かもしれないけれど、熱中症さえ感動譚になってしまうような剣呑な雰囲気を感じるんだ。もちろんこれは熱中症だけじゃなく、怪我や過労死やらにも同様に繋がっていく価値観であって、僕としては“文化的虐待”だと言ってしまいたいと思う。
みんなは人に焼き土下座をさせたいの?

こんな暑いなか、強制的に走らせることだったり、怪我をすることが当然なスポーツを応援することだったり、危険な話や不幸な話を感動的に演出することは、僕から見ると、『賭博黙示録カイジ』にある熱された鉄板の上で行われる焼き土下座に対して、揃いも揃って拍手喝采しているような異様さを感じるんだ。
辛く険しい道のりを歩んでいることが偉くて、楽して生きていくことはズルでもしているんじゃないかと、どこか怪訝そうな面持ちで簡単に嫌ってみせる卑しい価値観のあり様。本質的にカイジと同じだと思わない?
「頑張った結果」や「頑張った過程」ではなくて「頑張りたいことの数や質」を尊びながら評価して、同じ結果であればいかに楽できたかを讃えあえる社会であってほしいものだよね。
幸せ=偉い
怪我はしない方がいいし、よく寝てよく食べ、残業もしない方がいい。金持ちになった人もすごいし、障害者にはその人にしかできないこともある。そんな当たり前のことを忘れないで過ごしたいよ。どれだけ頑張らなくても幸せに過ごせるのかという答えを見つけ出すのには、自分がどんな人間なのかと真摯に向き合う必要があって、案外極めて難しい。でもそれこそが知性ある人間として誇るべき姿だと思う。
だからこそ、誰にでも門を開いている学問と、そこから見る世界の楽しみ方を、子どもたちに教えていきたいと思っているんだ。
あ、ストップ!
また、暑いって話と全然関係なくなるところだよ。
8月の目標は「みんながコメントをしやすい記事を書こう」ってことで、お天気の話は、誰でも会話ができるとよく聞くから、暑さについて話してみたんだけど、どうだったかな?
常識を作り出すのは未来を担う子どもたちだ。僕たちがその見本となる価値観をデザインする必要がある。だから、一生懸命考えて、一生懸命話し合わなくてはいけないね。今日は暑いから休みたいなって言える勇気の一歩から始めてみよう。








