障害の捉え方
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
この記事は、Amebaブログのリメイクです。
今日は障害について考えてみよう。
僕は自閉症スペクトラム障害の当事者としてこのブログを始めた。障害者手帳も持っているんだけど、これまであまり「障害者」としてのお話はしたことはなかったかもしれないね。でも、実生活では道徳の授業なんかで、よくこの話題を話しているから、ブログでもしてみることにしたよ。
普段のクリハロくんの生活を見ていると、確かに困ってしまう部分もあるのかなって思うけれど、障害って何を指してそう言うんだろうね。
じゃあ最初に、「障害とは何か?」と考えるところから始めようか。僕たちが障害をどのように捉えていけば、すべての人が過ごしやすい社会は築かれていくんだろう?
障害を定義しよう
障害に対して「ある」という言い方と、「持つ」という言い方があるよね。
障害がある 障害を持つ
みんなはどっちの方が適切だと思う?
【ある】
存在している。位置している。 〈例〉「店には階段がある」「東京に皇居がある」
【持つ】
所有する。手にする。負担する。 〈例〉「左手に箸を持つ」「重大な責任を持つ」
「ある」と言うと、ニュートラルにただ存在を示しているようだし、「持つ」と言うと、本人の所有物として障害をとらえているように感じるね。
このどちらが適切か考えるために、現代の社会では「障害」そのものがどのように定義されているのか、現行の法律の言葉も見てみようか。
この法律において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
一 障害者 身体障害、知的障害、精神障害(発達障害を含む。)その他の心身の機能の障害(以下「障害」と総称する。)がある者であつて、障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるものをいう。
二 社会的障壁 障害がある者にとつて日常生活又は社会生活を営む上で障壁となるような社会における事物、制度、慣行、観念その他一切のものをいう。
引用:障害者基本法 第二条
一で障害者、二で社会的障壁という語句の意味が定義され、障害者の定義のなかで「障害」の説明をしているね。要約すると、“医学的な障害”のある人たちが、社会における様々なものが障壁となって、日常生活や社会生活に制限を受ける場合に、その人を障害者と呼ぶとしているってことだね。
障害の本質は「壁」
きっと法律の上では、医療について定める必要があって、こんな表現になっているんだと思うけれど、僕たちは医療的な問題以外でも社会的障壁を感じている人たちを知っているはず。
確かに、所得格差、性差やジェンダー、人種や国籍、学歴だとか…。
このような「差」によって不利な環境にいる人たちもいるよね。
そこで、すべての人たちが気持ち良く過ごすためにと考えると、僕らの心の中では「障害」というものをもっと広く捉えて、様々な人が感じている社会的障壁そのものを「障害」だと捉えればいいんじゃないかなって思えてくるね。
人間が一人だけがいたときに、障害を考えることはきっとない。社会との相互関係のなかで障害は発生するものなんだよね。例えば次のようなものは障害になるかな?
- 腕が4本ないこと
- 記憶力が有限であること
- 呼吸や食事をしないと生きられないこと
- すべての言語を操れないこと
- 5000年生きられないこと
- 出産時に痛みすぎること
- 赤ちゃんは知能が低いこと
- 翼がなく空を飛べないこと
これらが解消されたら、とても便利になる気がするよね。
けれど、これは普通、障害とは言わない。腕が4本ないことは障害ではないけれど、2本ないことは障害になるってことだ。この違いは「多数派」なのかどうかだけで決まっている。社会が多数派のために作られているからこそ、それに属していないと生活がしづらくなって、社会的障壁を感じるようになるんだね。
僕はよく「世界の全員が目が見えなかったら、どんな世界だろう」と考えることがある。
そしたら、きっとそれを障害とは呼ばず、空を飛べないことに対して僕らに不満がないように、目が見えないことも大変だとは考えずに過ごせると思うんだよね。
ここまでの話を踏まえると、障害は「ある」と「持つ」どっちが適切かという最初の問いにも答えられそうだね。障害は個人が性質として所有しているのではなく、社会に存在しているものだと考えられるから、「ある」の方が適切だと言えるんじゃないかな。
これで「障害」と「障がい」のどちらの表記がいいかって話にも答えられそう。
これまで、「害」にマイナスイメージがあるだとかの意見には、じゃあ「障」はどうなんだ?とか思って納得できなかったんだけど、ただ「社会に存在しているもの」だと考えれば、マイナスイメージだろうが全然構わない。もっと汚い言葉が使われている方がいいんじゃないかと思えるくらいだよ。
「障壁」という言葉の通り、社会的障壁ないし障害は、人々が快適に、自由に、幸せに暮らしていくにあたり、壁(バリア)のようになって存在している。その壁を壊して隔たりをなくしていくことを「バリアフリー」という。
今回は医学的な障害に留まらず、もっと障害を拡張して捉えようということだったから、対象を広く取ったバリアフリーのあり方も考えてみよう。
障害を拡張しよう
バリアには4つの種類があると言われている。

物理的な問題に関しては、少しずつ解消していくしかないけれど、僕たちの意識やルールに関してはすぐにでも変えていくことができそうだよね。
それに、これらのバリアは、確かに医学的な障害に限らないね。
「同性婚を認めない」なんていうものも、制度的なバリアだと言えそう。
それから、もっと「障害」を拡張して捉えると、誰もが障害者だとさえ言えるんじゃないだろうかと、僕は感じてくるんだよね。そしてそれらには「バリアフリー」の解決策を与えることができる。
一人では食料を確保できない障害
食品産業などのシステムによって、狩りなどや農耕を行えない脆弱な人にも食料を届ける。
年齢が低いために未熟である障害
この障害を持つ人を“子ども”と呼び、教育等のシステムによってサポートする。
これらのことは、もし解消する術がなかったら、人類にとって多大な損害であったから、早急にバリアフリーが進んだのかもしれない。現代社会では「ただ生きていく」ことには困らなくなってきているから、マイノリティも含めたさらに新しい課題を見つめられるようになったんだろうね。
その上で同様に「視力の低さや視野の狭さ、光の感じ方などによって見えづらく思える障害」といった、全員が抱えているわけではない障害に対しても、眼鏡や点字、白杖、盲学校などの、物や文化を提供できるようになったんだ。
私も社会や人に助けられていることもあるし、私の払った税金や、かわいさでみんなを癒しているときもあるのかな。
みんな誰しもが時に「障害者」であって、時に「介助者」でもある。
社会が助け合いでできていると綺麗事を言うのも馬鹿馬鹿しいかもしれないが、食料障害や年齢障害といった“当然の障害”から地続きで考えてみると、それにも納得できるんじゃないかと思うよ。
違いを楽しもう
でも、人が何に困っているかを正確に理解することは至難の業だと思う。病気だけを取り上げたって、知識として学ぶには限界があるし、感じ方や考え方は十人十色だもんね。
例えば「ある感覚を強い刺激に感じて、学校や職場が辛いと感じる障害」がある人へのバリアフリーに関して、どうすれば過ごしやすくなるのかをすぐに判断できないなんてこともあるよね。
けれど、みんなで考えて話し合っていくことで、既存の環境を見直してみることや、オンライン化をしていくなんてどうだろうと、意見が出てくるかもしれないね。
重要なのは、知識や技術ではなく、みんなの根底に「違いを楽しむ心」を養うことだと思うんだ。
現代では「違い」は「なくす」ものではなく、「認める」ものだという価値観が主流になっているとは思うけれど、「認める」だと、「本当はない方がいいけれど、あるものは仕方ないから、受け入れてはおく」みたいな消極的なイメージに僕は感じられるんだよね。
しかし、実際には「違い」がないと進歩もない。社会が前へ進むのは、この「違い」によって様々な意見が交わされるからに他ならない。
この前、パラブレイキン(障害者向けのブレイクダンスのスポーツ)を見ていて思ったんだけど、足があったら絶対できないような動きがあったり、健常者向けのブレイキンとは全く異なるスポーツに感じたんだよね。これは人間としての形質そのものに違いがあるからこそ生まれた文化だよね。
だからこそ僕は、違いはむしろあった方がいいと思うんだ。
違いをなくす
↓
違いを認める
↓
違いを楽しむ
「違い」は、あなたがあなたであるための、大切なアイデンティティだ。社会の力となる「その人にしか言えない意見」を生むためにも、誇りを持っていたいね。障害の有無に関わらず互いを支え合って、明るく豊かな社会を目指すことを「ノーマライゼーション」という。一人ひとりが得意なことで支え合いながら、違いを楽しんで、一人残らず過ごしやすいと思える豊かな社会を創っていこう。
そのために、まず私たちには何ができるだろう?
あなたの意見も知りたいな!みんなで話し合ってみよう。








