句読点に、こだわれ。「カンマ・ピリオド」が大嫌い!

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 当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。

クリハロ

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この記事は、Amebaブログのリメイクです。

 みんなは「句読点」に何の記号を使う?

​そんなの「、」(てん)と「。」(まる)に決まってるんじゃない?

 ほとんどの人は、その「、。」の組み合わせを使うだろうけど、読点だけをカンマとする「,。」や、句点までピリオドにする「,.」なんかを用いる人もいるんだよね。特に、理系の学術論文などでは、カンマやピリオドが使われることが多いんだ。

Macの設定でも変えられるんだよ。

ただね…
僕はカンマとピリオドが 大嫌い!!

 もちろん、英文に半角のカンマ・ピリオドを使うのは当たり前だし、日本語の文章中でも許容できる使い方(数字の列挙や「1.見出し」のような箇条書きとしての使い方)はあるんだけど、横書きの日本語中の単なる句読点に「,」(カンマ)や「.」(ピリオド)を使うのは許せないんだよね。

 読む分には少々の嫌悪感があるだけだけど、書くのは絶対にしたくない!!!

 僕の専門は完全に理系というわけではなく教育系なんだけど、数学教育に係る学術的な文章でも件の悪しき傾向があるの。だから「句読点をカンマ・ピリオドにしてくれない?」だとか、もっと酷いと「てん・まるになっちゃってたから、カンマ・ピリオドに変換しておくね。」だなんて先輩らに言われることもあったんだよね。
 これは不快で耐え難い。そんなことを言われた場合には「絶対に変えません。もし勝手に句読点を変えたら、それは僕の文章ではないので掲載を許可しません。」なんて、気難しい小説家ムーブを取って難を逃れてきたよ。

クリハロくんはいかなる「表現」についても、作品を第三者の手で勝手に変更される現象が大嫌いだし、自分の表現に至っては、どんな小さい変更にも鬼の形相になって1ミリも許さないから、協力的な活動には向いていないんだよね。

 個人的には、誰もが句読点などの記号一つにまでしっかりとこだわって文章を創出して欲しい気持ちがある。カンマとピリオドを使うのは、欧文書を真似た大昔からの謎の慣習でしかないのに、自分が作り出した文章に対して無批判にそれを使うのは表現者として無責任でしかない。文章を、情報の入れ物としてだけではなく、クリエイティブの舞台として捉えてしまう僕だからこそ、そんな思いが強いのかもしれないな。

 というわけで今回は、僕が句読点に「、」(てん)と「。」(まる)を使う理由を述べてみることにするよ。それでもなお「,」(カンマ)と「.」(ピリオド)を使いたいという人はその理由をちゃんと論証してみてね。

日本語の句読点の歴史

 「、。」が本来の日本語のあり方なんだから、「,.」みたいな新しいものを取り入れるな!っていうお話が始まるのかと思った人もいるかもしれないけれど、実はその考えは根本的に間違っているよ。

 昔の日本語には「句読点」というもの自体、存在しなかったんだ。

 定着し始めたのは、19世紀末の明治時代のこと。カンマとピリオドが、16〜17世紀に聖書が翻訳されるときに日本にやってきたことを顧みると、別に「、。」で書くことが“歴史的に正しい”とは言えないよね。

意外と日本語における句読点の歴史は浅いんだね。
あくまで、西洋の文章(欧文)を真似て句読点を打つようになったなら、カンマとピリオドを使うというのも、そこまでおかしいことではない気がしてきたよ。

 その通りで、1950年の文部省の見解(国語の書き表し方)によれば、

(横書きについて)
くぎり符号の使い方は,縦書きの場合と同じである.
ただし,横書きの場合は「、」を用いず,「,」を用いる.

 と、むしろ逆に「、」(てん)は用いないって明示的に書かれているんだ。

 しかし、「.」(ピリオド)については、アルファベットに比べて画数の多い日本語の文章のなかでは見づらいために、「。」(まる)を使った方がいいと考えたみたい。
 そうして、1952年には「公用文作成の要領」が出され、公文書においては、「,。」を用いると定められたんだ。それでも、公文書ではない一般的な文章のなかでは、縦書きと同じように「、。」を用いたり、論文などでは忠実に欧文に倣って「,.」を用いるというように、使用する記号に“揺れ”が生じることになった。

それぞれの表記にそれなりに必然性があったように思えるね。
それにしても、私が使っていた国語以外の横書きの教科書でも、普通に「、。」は使われていたし「,。」が標準だなんて感じたことがなかったよ。

 公文書では、70年以上前に定めたものを特に疑いもせずに遵守し続けてきたわけだけど、一般書を通して「、。」に触れる機会が多くなってきたこともあって、「,。」にはだんだんと不満が高まってきたんだろうね。

 そこで2022年、新たに「公用文作成の考え方」が文化審議会から出された。

17頁より引用

 このように、やっと公文書のなかでも、「、。」が規範だとされたんだ。
 (ただ、2022年になるまで変えないなんて…役所仕事の遅さにはいつも驚きだね…)

僕の句読点の使い方

 それにしても、せっかく規範が「、。」になったわけだけど、慣習を直せない老人向けなのか「読点に「,」を用いてもよい」と書いておいたり、学術的・専門的に必要な場合は「.」(ピリオド)さえ使っていいなんてまだ言っているんだよね。

ピリオドが必要な場合って何?って感じだけど…

 僕はこの「公用文作成の考え方」に完全に則って文章を書きたいというわけでもないし、そういう権威主義な価値観では「,。」や「,.」を盲従して使ってきた人たちと本質的には変わらない。
 今回は、みんなにはあくまでも自分なりに「句読点にこだわれ」って言いたいから、僕の句読点などの記号に対する価値観を、最後に示しておきたいと思うよ。

「、」(てん)「。」(まる)を使う理由

  • 単純に見やすいから。
  • 小学校から習ってきた素朴な書き方であり、文章の外側の世界との壁が最も低くなると感じるから。
  • 読点は次々と文章が続いていく感覚で読み進めたいが、右向きに続く「、」に対して「,」は左向きに跳ねていて、障害物のように感じられるから。

 何よりも見やすいというのが大きな理由だけど、感覚的にも「、。」を好むわけを述べてみた。小説やエッセイなどの文芸においても、その文章の世界に没入させることが必要で「文章という虚構を読んでいる」という実感は持たせたくない。さらに、現実に即した情報を重視して書かれた文章なのであれば、学術等のどんなに難しい話であっても、それは“日常生活”の一部である方がいいと僕は思うんだ。出版業界ではあまりしない、かぎ括弧の最後に句点をつけることや、「…」(三点リーダー)を一個で使うことなども、僕は素朴な印象を与えるためにしているよ。

 だからこそ、こうして口で話すような言葉遣いにもしたいと思っているんだ。加えて、お喋りでは表現されない「記号」というものについては、“声色”や“間”といったテキストとしては削ぎ落としてしまう情報の代替として利用したいんだよね。換言すれば、無闇に「読むこと」への敷居を高くしたり、読み進める上で邪魔になったりする要素は取り除きたいんだ。
 勉強をするとき、ゲーム感覚で勉強する方がいいとか、一方的に講義的に学ぶより対話的に学ぶ方がいいなんて言われることがあるよね。僕から見ると、それらもすべて「勉強する時間」を特別な時間にせず、日常生活との境界を曖昧にする方が身につきやすいということの表れだと思える。それなら、コミュニケーションとしての文章についても同じであるべきだと考えるのは当然だよね。学術論文だろうが、「こんなことを思いました」「こんなことがありました」ってみんなに報せる日常的なコミュニケーションでしかないのに、一般的でない表記をする必要性はどこにあるんだろうね。

学術を高尚なものとして大衆と隔絶することで満たされるのは、研究者の自尊心だけに思えるね。情報を開けたものとするためにも、ある意味「普通なもの」を書こうと考えることは大切だと感じるよ。

 もちろん、これは「情報を伝える」という目的を重要視したからこその考え方だから、他の目的があるならこの限りではないのかもしれない。大事なのは、表現の細部においても確かな目的意識を持つということなんだ。
 みんなも文章を書く際は、表現者として鑑賞者の体験を支配することを第一に考えて「他人に一文字も変えられたくない」と言わなくては気が済まないくらいに、こだわって書くようにしてね。


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