書く
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
この記事は、Amebaブログのリメイクです。
ブログを始めてから一年が経って、書くことの面白さと苦しさを感じている。
以前から僕は文章を書くのがそれなりに好きであって、青く痛々しい小説を書いてみたり、日記のなかで詩を綴ってみたりしていた。人前で話をするのも今より遥かに下手だったから、一度文字に書き起こすことで落ち着けたものだ。いつでも右脳はおやすみしがちなようで、すべてを言葉で描写する癖がある。僕のすこぶる悪い視力に代わって、本当に視力として機能しているのは語彙力であるとさえ思う。
文体は僕にとって容姿そのものだ。普段のブログの文章は、気まぐれなおしゃべりに近づけようとしているが、あれはむしろ化粧をした後の姿かもしれない。僕の素顔はTwitterのサブアカウントで覗けるが、概して今回の記事に表れている。かわいげもなければ、大した深みもない。そんなありのままの容姿を記録するために、つらつらと構成も決めずに書き出すのも、たまには悪くないと考えた。今回の試みは、自画像ないし証明写真を収めることである。誤字以外でカーソルを戻すこともなく、思いついた順にひたすら書き進めていく実験的な文章だから、細かい部分は大目に見て欲しい。
先月、エッセイを公開したが、もちろんあれは随分お行儀のよい僕だ。文体自体はここにあるようなすっぴんに近いが、いかんせん格好つけている。表現者としての宣材写真を作ろうじゃないかと、一風変わったポーズを取った裸体を友だちに撮ってもらったことがあるのだが、エッセイというのはそんな調子であった。醜く汚い障害者の痩せた肉付きをサイケデリックな加工で隠されたように、作品性以上の真実は映らないのだ。そうやって化粧をしたり加工をしたりする僕だが、その幅によって自分が表現されるのではないかとも常々云っている。「これが自分だ」と点で示すよりも、大まかな範囲として多数示す方が、その積集合が徐々に狭まっていくなかで、確信の持てる「自分も知らない自分らしさ」が表れるからだ。
僕は表現をし続けないと自分を見失ってしまう。限界や属性をすべて把握してしまうと、たとえ自己のことであってもネットニュースのような取るに足らない情報と同一視できてしまう。満点が取れると判っているテストを解いても、悪いと知っている心肺機能を検査されても、何も新鮮な感情が生まれない。百回サイコロを投げた後で、百一回目を投げるような感覚がする。だから僕には「自分も知らない自分らしさ」を丁寧に見つめることが必要なのだ。もしも自分への興味をも失ってしまえば、小学校の教室でいじめられていた僕に逆戻りするのも簡単になる。変わらない日常に押し潰されながら、肩書きや立場に紐付いた役割を要請されるだけ。毎日同じ調子で「できること」「知っていること」を再生産するしかない。そうして遂には死んでしまうことも厭わない精神を醸成するのだ。
しかし、書くことがその危機を救う。僕はそれを芸術と呼ぶ。音楽や絵も、言語思考の僕には「書くこと」と言えるが、解りにくいから差し当たり文章を扱おう。
過去に書いたブログを読んでいると、当時の感覚が鮮明に蘇ってくる。とても活き活きとしていた。自分がどのようにブログを書き、どんなものができあがるのか、書き始めるまで予想できないという、新たな自分との邂逅に胸が躍っていたのだ。最近になり更新頻度が著しく落ちているのは、この新鮮さが失われたためである。ネタがないなんてこともない。もし今が去年の六月であったら書いていたであろう話題はたくさんあるし、今書けばそれなりに自分でも面白いと感じられる出来になる自信もある。けれども、それらがすべて予定調和と感じられると、唐突にやる気が削がれてしまうのだ。少しの自己顕示欲や承認欲求でも持っていたら、話が違っていたのかもしれないが、僕を満たせるのは僕自身だけであると理解しているから、悲しいことに職業じみた表現を満喫する術を有していない。
今ならもっとできるなんて言ったが、一般的なクオリティの話をすると過去作の方がよくできていた。読みやすく届けたい相手も明確である。しかしながら、そういうブログを書いたのは「僕にそれらしいブログを書くことはできるのだろうか」という興味でしかなかったから、数ヶ月やってみて満足できたのだ。最近になって出しているものは、予定調和を脱して純粋に書くことが楽しいものに限られているから、他人が読んでも然して面白くないはずだ。この記事なんてその到達点であろう。ブログデザインを変えるなどして、もう一度興味が向かないかと試行したものの、それも本質的な解決には至らず効果はなかった。
それでも、ブログという場所ができて、何かを書きたいときに書き方に困らないということは素直に嬉しい。僕は「見た目」や「全体の構造」をデザインしない限りは、個別の作品を作ることができない。例えば、部屋に本棚がなかったら一冊も本を買わないし、本棚を選ぶことにも極めて悩んでしまうような性格をしている。だから、Dec25Oct31という部屋のブログという本棚を精緻に作ったことで、これからどんな新しい書籍が増えても対応できるという安心は重要なことなのだ。
そういえば、ほとんど初めてアナリティクスというものを見たのだが、このブログは「十代の男性が夜中に読む」というのが多いらしい。エロ本のような立ち位置である。性的な描写こそないが、自慰行為を写実しているからだろうか。先に言った通り、僕のブログを読んで何が楽しいのかは理解に苦しむのだが、ありがたい限りだ。ちょっと頭がよくなったような気になって、ぐっすり眠ればよい。それにしても、作者自身でありながらそれくらいにしか思っていないのに、なぜブログという本棚を大切にしているのだろうか。これから僕はどんなブログを書くのだろうか。
他人のブログを読んでいると、この「自閉症くんと考えよう」の異質さが際立って見えてくる。人と違うことに優越感が生まれる訳でもないのに、昔から人と仲良くしようとしても孤立してきた。同じようにブログの異形も出来上がる。
アメーバブログでは「公式ジャンル」というものを設定できるのだが、どう考えても当てはまるものがない。「自閉症」と謳っていることを理由に「メンタルヘルス」としていたが、自閉症のことを知りたい人が読みたいものではないのも確かだから「教育」としてみたりもした。「自己表現」なんてジャンルがあれば喜んで選ぶが、そんなジャンルは異形の運営者しか望まないのかもしれない。
なんとなく今は鬱傾向にあるからだろうか。考えれば考えるほど珍しく淋しい思いをする。自分さえ楽しければよいと割り切っている気持ちも嘘ではない。ただ、52Hzで鳴く鯨のように誰にも理解されない孤独を泳いでいる気がして、ブログひいては書くことについて悩むなかで、少しだけ涙を零してしまった。このような整合性のない駄文を書いて、自分の文章に忌避感を抱けば、こんな下品な感情も諦められるのではないかと考えて実験したが、三千字近く書いたところで、そんなことはなさそうだと見えてきている。
書くのは楽しい。書きたいこともある。しかし、ブログの体裁よりも、もしかしたら小説だとかの方が合っているのかもしれない。そう考えて、エッセイを書けば、とても清々しい気分がした。でもそれも、去年ブログを始めた頃の高揚と同じものかもしれない。新しい表現を手にすれば、その分だけ楽しめる僕もいた。それに救われてここまで生きてこられた。だからこそ、僕は新技法の習得そのものの流れに慣れてしまうことが怖いのだ。成長すると人は、視点がおもむろに高次へ飛躍していく。それは喜ばしいことなのだけど、行き着く先は恒常的な不満であって、死をも厭わない精神を抱かせては、無感動な生を強いるのだ。
幼き日、自閉症に係る療育で感情カードを左から順に選んでいた僕は、この上なく孤独であった。今もう一度、その苦しさを味わおうとしている。
さて、一時間足らずでこんな駄文ができた。推敲もしない。とりあえず満足。








