不合理な挨拶
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
この記事は、Amebaブログのリメイクです。
今日は自閉症児っぽいお話。
“ニンゲン”が下手だった(今もか…?)幼い頃の僕のエピソードを話すね。
自閉症の人が社会性に欠けるというのはよく言われることだけど、数学の公式を覚えるみたいに、人間としての行動の規則を論理的に捉えられると協調性の真似事ができるようにはなるんだ。だから、成長するとまだ少しは「普通のフリ」をして居られる気もする。ただ、子どものときは世界が意味不明すぎてとても困ったよ。
昨日、急に今回のエピソードを思い出したもんで、ブログに書きたくなった。
大した話ではないけれど、普通の大人から見ると理解できないような幼い僕の行動の理由を解説することで、自閉症児の頭の中を覗く体験を提供できるんじゃないかと思ったんだ。まぁ、常にこのブログはそんなところがあるけどね。
クリハロくんは、障害とか関係なく性格に難があるし、自閉症児の平均と考えるのは変だから、一例として参考程度に聞いてね。
「ありがとう」が正しくない
年長の夏休み、祖母宅に親戚が集まっていた。
そこで、おやつにショートケーキをもらったんだ。
いつもは周りのフィルムを取って出してくれるんだけど、そのときは巻かれたまま出されて、不器用すぎた僕は上手く剥がせず、テーブルにクリームを付けてしまったんだよね。フィルムにクリームが持っていかれすぎて、不恰好になってしまったケーキが悲しくて、しばらく呆然としていたよ。
フィルムを取るに相応でないおかしな動きをする僕に、お母さんは慌てた様子だったから、不器用が情けなくて「ごめんなさい」とがっかりしたまま言った。そのとき、それを見ていた伯母さんからティシュを一枚渡されたんだ。僕も自分で掃除するくらいのことは仕方ないと思って黙って受け取り、拭こうとしたら、お母さんはこう言ってきた。
「ティシュもらったんだから、ありがとうって言いなさい。」
僕は言葉を話すのが全体的に苦手で、挨拶をしようと言われることがよくあったから、その一環だとは思えたんだけど、今「ありがとう」と言うのは正しいのか?と、逡巡してしまった。
「ありがとう」と述べるのは感謝を示すためであって、相手の奉仕や情けによって自分が利を得たという合図になるね。ただ、僕にはこのテーブルを掃除することに何の得もない。だから「ありがとう」を言うべきなのかよく分からなかったんだ。
納得できないままとりあえずやるというのが異常に嫌いな僕は「言いたくない」とだけ言ってしまったから、お母さんからは叱られるというか指導をされることになる。叱られている内容に反駁したくても、当時はそんな説明もできなくて、パニックになって泣き出してしまった。もうケーキも食べずに逃げ出したよ。
今はこんな些細なことで、ここまで追い詰められることはないだろうけれど、当時のことを振り返ると、迷う理屈もわかるし「ありがとう」を簡単に言えない感覚も変わっていない気がした。
このとき、お母さんからは「ありがとうと言うことで、相手も気持ちいいんだから、迷うくらいなら言えばいいんだよ。」と諭されたんだけど、これには今でも合点がいかない。「ありがとう」がまったく妥当でないのに言っても、気持ちいいと思う人は居なかろうし、むしろ反感を買う可能性だってあると思うんだよね。
A「今日は歩きすぎて疲れちゃったよ。」
B「ありがとう。」
A(え、私に疲れて欲しいの?)
A「面倒くさいからこれ全部やっといて。」
B「ありがとう。」
A(何?私がやらないことに対する嫌味?)
と、頓珍漢な「ありがとう」は、コミュニケーションを破綻させる恐れがある。相手も気持ちいいはずだという解釈をして、できるだけ「ありがとう」を言うようにしようとするのは、感謝することが妥当であるタイミングを無意識で感じ取れる人間に有効な手段であって、僕みたいな人には効かないね。無闇矢鱈に「ありがとう」を言ってみる奇妙な確率的振る舞いは、言わないより悪いと思う。
クリームで人の家のテーブルを汚したことは申し訳ないから「ごめんなさい」は言える。ただし、そのテーブルをそのままにして困るのは、この家の人間である祖母でしかない。僕が掃除をするのは、テーブルを汚したことに対する責任を全うするための「罰」か、祖母の掃除の手間を省かせてあげるという「慈悲」だよね。
また、伯母さんという第三者は、テーブルにクリームが付いていようが、僕が罰を受けようが、いかなる場合にも関係がない。ただ自由な行動によって、ティシュを渡してきただけの存在であって、むしろ自由な僕に罰やら慈悲の実行を催促してきているんだ。そういう罰を強制してくる相手に「ありがとう」とまで言うのは、ヨブでもあるまいし、しない方が一般的なんじゃないかと感じる。
甥っ子に「ありがとう」と言われないどころか、災厄であるかのように捉えられている伯母さん、可哀想だね。
「ありがとう」が言える理由
みんなは「当たり前のことなのに何を悩んでいるんだ?」って感じかもしれないけれど、僕の頭の中はこんな感じなんだ。すごく後ろからスタートしているから、みんなと同じ結論に至るためには、たくさん考えなきゃいけない。でも、お母さんも「とりあえず言っておけば…」なんて説明したように、感情の過程を明確に理解できている人って少ないんだよね。逆に僕はビハインドから見つめるからこそ、みんなが前提としているものを意識的に捉えられるのかもしれない。
ということで、ティシュをもらってありがとうと思える人が、なぜその心理を抱けるのかを、ここからは分析してみよう。
当然のことすぎて考えづらいという人は次の例を想像して欲しい。
工事現場付近を歩いていたとき、壁に肘が触れてしまった。すると、そこはペンキ塗りたてであって、肘はペンキで汚れた。しかも、壁の塗装が少し剥げているではないか。近くにいた作業員に「すみません」と謝ると、通りがかったおじさんから、ペンキの缶と刷毛を渡された。
このとき、おじさんに「ありがとう」と思うだろうか?
こちらには、「ありがとう」とは思わない人が多いんじゃないかな。「おじさんは何者?」とか「これ、私が塗るの?」とか、困惑が先に生まれるよね。でも、構造としてはさっきのケーキとティシュの話と同じだと思う。
- 「いつもはないフィルムのせいでケーキが不恰好になって悲しい。」
=「注意書きなどがないせいでペンキで肘が汚れて悲しい。」 - 「とはいえ、テーブルを汚してしまったことは謝罪した。」
=「とはいえ、壁の塗装を剥がしてしまったことは謝罪した。」 - 「無関係な伯母さんからテーブルを掃除するためのティシュを渡された。」
=「無関係なおじさんから壁の塗装を修繕するためのペンキを渡された。」
確かに近いけど、だからと言って例と同じように「ありがとう」と言うのは変だと言い切るのは、なんとなく気持ち悪いなぁ。
こうやって、同じような構造であるのに抱く気持ちが異なるという事例を見つければ、あとはこれらを比較して違いを説明することで、特定の性質をそれたらしめる本質的な因果関係を抜き出せるね。
まず、ティシュの例とペンキの例の違いとしては、「伯母さん」と「通りがかったおじさん」とでは、関係値がかなり違うことが挙げられる。伯母さんとはスムーズに会話ができるけれど、おじさんといきなり話すのはなかなかハードルが高い。それなのに、向こうはその壁を意に介さず、「ペンキを渡す」という、かなり個人的で、さも関係値があるかのような働きかけをしてきたんだから、引いてしまうね。そして、ティシュで机を拭くことと、壁にペンキを塗ることの難易度にも差がある。ペンキを塗ることは難しいし、業務としてやっているわけだから責任も伴うよね。それに比べて、机を拭くのは誰でもできるし、本人が掃除すればいいと思われやすいのかもしれないね。
こう考えると、お母さんが「ありがとう」と言うのが当然だと考えた理由も解る気がする。机を汚した瞬間に、簡単なのだから本人が掃除するのが普通だと捉え、僕自身もそれを望んでいるはずだと考えたんだろうね。そして、その望みを叶えてくれた伯母さんに対して「ありがとう」と言いなさいと促したわけだ。
ただ、僕が不満を感じたのは、この文脈が単に理解できなかったからというだけではない気がする。ここまで分析したところで、やはり少々腑に落ちない。僕がどのように考えて、どのようなことを望むかということを、自明でない論理で勝手に決められ、行動を強制してきたことがどう しても気に食わないんだ。
それに、罰だとしても慈悲だとしても、自分一人で達成しなくては意味がないように思うというのもある。特に僕としては「慈悲」による振る舞いだと感じたから、伯母さんは一緒にその行いに協力したいと考えた参加者だと捉えられた。「一緒にやりたいんだけどいいですか?」とティシュを差し出してきて、「別にいいですよ。」という気持ちで受け取る。そのときに「ありがとう」と言うのはおかしいよね。
僕は、人間は自由な意思で生きていると思いすぎる傾向があるのかもしれない。ティシュを差し出してきたところで「この人が勝手にそうしたかったんだろうな」と捉えてしまう。伯母さんが個人的に机を掃除したくて、僕はそれを手伝ってあげたという風にも思えるから「ありがとう」と言うよりは「いいよ、わかった」とかの方が近い気がするんだ。
クリハロくんにぴったりな言葉を教えてあげる。
「自己中心的」って言うんだよ。
ごめんなさい。面倒な人間ですが許してください。
論理的整合性だけではなくて、人間関係を潤滑にするために無難な選択肢を取るというのも大切なんだろうな。
この文章を読んだのは、あなたの自由意志であって僕の要望を達成させるためにしたことではないから、これを言うのはおかしいかもしれないけれど、コミュニケーションの性質上、最後に言っておこうと思う。
最後まで読んでくれてありがとうね。








