黒歴史を弔う
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
この記事は、Amebaブログのリメイクです。
「人間関係リセット症候群」その言葉を初めて聞いたのは、確か十年くらい前だ。連絡先を消去したり、知らぬ土地に引越したりするだけで、簡単に新しい自分として生きていける。一昔前の村社会では有り得なかった現代病である。
インターネットでも、アカウントを作り替える「転生」という行為がある。現実世界での転職などと違い、指先だけで済む。だから、苦しい人間関係や完璧になれない醜い自分を直視すれば、どうしてもその選択肢が浮かんでしまう。僕にはこれが甚だしく口惜しい。「リセット」に慣れることで、鮮やかな死は色褪せるのだ。
memento mori
死は恐い。古代より免れられない本能だ。
そのためか、人間は死の練習に躍起になるようだ。幼児はよく高いところから飛び降りる。自分の身長の二倍くらいの高さから跳んでみて、足がじんと痺れるのを楽しむ。横断歩道で白線からはみ出せば死ぬし、ゲームに負けることでも死ぬ。もう少し真面な理性を拵えたとしても、次々と人が殺されていくフィクションを楽しみ、時に感涙に咽ぶことだってある。多くの死の模造品を作り出すことで、不可知な本物の「死」を、相対的に捉えたいのだろう。しかも、できるだけ明るく前向きに、どうしようもない恐れを薄めるために。
明示的にやれば、それは「宗教」と呼ばれるが、特定の信仰を自覚していなくとも、死の練習は誰もが押し並べてしている。死のあらましを推し量りたい欲求は頷けるが、果たして練習によって本当に理解は陟むだろうか。死の恐怖を希釈することで、溶け出してしまう生の美しさはないだろうか。
「リセット」は、直感的には死の模倣の最たる例だと感じられる。けれどその実、生きるためにする逃避だ。従来の場所に居続けて、無様に死ぬのには耐えられない一人きりの人格が、新しい生き方の枠組みを希求する。実際に生まれ変わることなんてないと判っているから、形式だけでも刷新したがる。問題は、これを「死の練習」だと誤認しやすいことだ。僕たちは、あらゆる死の模造品を観察し、その傾向から死そのものを推察するわけだ。とすれば、その根拠が嘘に塗れてしまっては、死を過小評価してしまう。人生に一度きりの幕引きが霞んでしまってはいけない。
僕は漫画に疎いが、家にあった『ドラゴンボール』は、幼児の頃に全巻読んだ。男児として暴力に依る解決は爽快であったし、三次元の空間を自在に動き回る戦いが小さな紙面で起きているのには感心した。ただ、釈然としなかったこともある。人間を簡単に生き返らせられることだ。七つ集めたドラゴンボールで死を簡単に克服できる。死後の世界も現実世界と大差なく地続きに描かれる。死が完全に薄められた世界に言葉にできない違和感を覚えた。
その点、小学生の頃に読んだ『ハリーポッター』は、まだよかった。魔法という超常現象を許す世界であっても、死を特別視して、絶対に超えられないものとしている。死を必要以上に恐れる弱い心から、自分勝手に遠ざけようとすれば、殺人に明け暮れ、異形となるしかない。それを絶対的な悪として描いている点がよい。
生きることを考えるためには、死に向き合わなくてはならない。
本能的に恐ろしいのは仕方ないが、退けてはいけない。終わりの意味、終わりの価値、終わりの美しさ。それを特別視して、深く悩んでこそ、生は煌めき出す。醜くてもよい。自己嫌悪に打ち拉がれるのを喜んで、他人にはナルシシズムと見間違われればよい。すべての足跡を等しく愛し、醜態を飾ってこそ美しい。
この死生観や美学を選んだ理由をよく反省してみると、十二歳の頃の愚行が起点にあると見えた。迫るAmebaブログの終わりに際して、その恥辱を告白したい。
告白
いじめについて語ったことは何度かあるが、ネット活動を始めた理由にも関係している。どこにも居場所がなかった僕は、自然とインターネットに縋った。よく利用したのは、いじめに関する掲示板だった。
個人情報は守った方がよいと、意味はよく解らずとも再三忠告されていたから、適当なハンドルネームで登録した。本名のアナグラムみたいな名前だったと思う。
いじめの相談をすると、即座に返信が来た。温かい言葉だった。けれど、どこか期待外れというか、救われた気分はしなかった。ディスプレイに文字が描画されるのは、DSでRPGをするのと変わらないからかもしれない。自分が受けているいじめについて、初めて言葉にするのは苦しかったし難しかった。僕にとっては大きな決心をして、母親のスマホからシークレットモードで掲示板に書き込んだのだ。なのに、使い古された温かい言葉で簡単に受け入れられてしまった。具体的にどんな言葉を望んでいたのかは判らないが、どうしてか落胆してしまった。
生きている実感が欲しくて、様々な掲示板へ内容を少しだけ変えて投稿した。小学生だと問題がある場合は、年齢を詐称してアカウント登録する。僕からすればインターネットに何かを書き込んだ時点で、現実からの「転生」の気分がしていた。登校するときは昨日と変わらず、自閉症で分厚い眼鏡の偏屈なチビとして、いじめられっ子の役を選ぶしかないが、ネット上では好きなプロフィールの人間として暮らせる。どんどん名前を変えて投稿し、その度に同じような励ましをもらって、同様に嘲笑してみせることで、孤独を再確認したかったようだ。
スマホを買ってもらうと、そんなゲーム感覚の書き込みが、さらに酷くなった。自分のいじめを描写するのにも飽きて、色々な設定のいじめを考えて相談する。そして目的が逆転して「転生」そのものに面白さを見出すようになった。「かわいそう」「よくがんばっている」そんな風に思われるのが気持ちよかった。
あるとき、他の掲示板に書き込まれている相談と内容や文体が酷似しているという指摘を受け、血の気が引いたことがあった。全部が崩れてしまうような焦燥に駆られ、急いでアカウントや書き込みを手当たり次第に消す。もうどこに何を書き込んだか把握しきれていないことに気が付いて、自分に呆れてしまった。しかし、それに懲りて偽装をやめたのかというと、そんなことはない。僕はもっと巧妙に架空の人物に擬態しようと努め始めたのだ。
まず、名前、住所、家族構成、身体的特徴を決める。その地区の学校を調べ、ホームページを隅々まで読み、マップアプリで土地勘を養う。今までにした習い事や特技または、苦手なものや悩み事なども決めて、特性や人間性が表れるエピソードを経緯なども含めて詳細に数十個作り出す。そしてアカウントを作る前に、人格をインストールするため、この人物として一週間くらい日記を書いた。よく使う語彙や文章の癖、絵文字や顔文字の使い方なども自分とは異なるべきだから、慣れるためには練習するしかない。自分より賢いフリはできないから、大抵は不器用だけれど心優しい、冴えない男の子になろうとした。一人当たり数万字綴ったメモは、スパイさながらの出来だった。
中学生に上がった頃は、埼玉県で知的障害のある兄の介護をしながら、サッカーの練習に勤しむ中一の男子「圭」というペルソナがお気に入りだった。年齢や性別を変えたものもあったが、そちらはあまりにも演技でやっている気がしてしまう。圭は、ちょうどよい距離感であって、感情移入がしやすかった。いじめ掲示板に書き込む都合上、いじめられている事実が必要だったから、兄のことを揶揄われて必要以上に逆上したことで、いじめられるようになったという物語にした。曲がったことが許せず、誰彼構わず正義を振りかざしてしまう不器用な圭は、サッカー部において酷い扱いを受けるようになり、好きだったサッカーというチームスポーツが恐ろしくなってしまう。兄の介護に追われている家庭に追加の迷惑は掛けたくないと、無理に無理を重ねる様を実況的に毎日書き込んでいた。話し方の特徴は強がりをすること。「俺は別に無視されても気にしない」と言ってみせたり、兄のことを自分で馬鹿にしたりもする。ただ、ひたすら行動は誠実だと透けるようにした。
ある日、圭に対して長文でメッセージをくれた女性がいた。後で聞くと、年齢は僕の母親と変わらないくらいの人だった。「圭くんが本当はとても苦しいなか、頑張っていることを知っているよ。家族や学校に言いづらくても、ここはあなたの生活には関わらない絶対に安全な場所だから、辛いときは辛いって必ず言ってね。圭くんのお話たくさん聞きたいな。」そんなことが書かれていて、僕は返信が来るのが面白くて、いくつか圭のエピソードを記した。その度に、深く共感して本気で悩んでくれた。僕としてはかなり申し訳ない気がしながらも、圭の人格を降ろして読むと涙が溢れた。実際の自分のいじめ相談では落胆してばかりだったが、圭を通して初めて救われた気分がしたのだ。数週間、掲示板でやり取りをしてから、女性はメールアドレスを教えてくれて、僕も圭のメールアドレスを作って交換した。
それからは毎日、お互いに数千字のメールを送り合った。他の架空の人物での投稿を少しずつ減らし、遂には圭だけに集中するようになる。逆に圭のプロフィールはますます充実させ、サッカーについてや、圭が好きそうなアニメや歌などを徹底的に勉強した。彼女が気に入りそうなカスタマイズもした。そんなことを数ヶ月やっていると、嘘を吐いているという自覚もなくなってくる。学校で暴力を振るわれ、散々排斥されながら、今日の圭はどんなことをしているだろうと考える。そして家に帰ってきたら、その日に考えた出来事を圭としてメールに長文で書くという二重生活を送った。楽しかった。メールの内容はいじめのことばかりでなく、他愛もない内容も増えた。彼女についてだって知る。精神疾患があって働けず、親と暮らしていて、いつも家にいるからメールで人と繋がれることが嬉しいだとか、花が好きでフラワーアレンジメントをしているだとか、いくらでも話した。最も驚いたのは、住んでいる地域が近かったことだ。住所を教えてもらうと、なんと二駅隣だった。けれど、圭の設定とは遠いし、説明した圭の容姿と僕の姿はかけ離れているから、絶対に会うこともできない。何も言えなかった。
僕はだんだん圭としてのロールプレイというよりは、彼女そのものに依存するようになった。どうしても自分自身のことを聞いて欲しくて、いじめの内容を自分の受けているものに少しずつ変えていき、自閉症であることも明かした。圭のプロフィールに矛盾しない自分の情報を挿入すると、圭は一段と僕自身に馴染んで感じられた。どんなことを話しても「話してくれて嬉しいよ。辛いことは辛いって必ず言ってね。」と優しく受け止めてくれるのは、独りぼっちの心に痛いほど沁みた。
冬休み前、彼女の精神状態が悪くなった。出会ってから毎日欠かさなかったメールの返信がなかった日があって、僕は心配して何通も送った。次の日、彼女は深く謝ったが、しばらくすると、圭くんは裏切り者で、周りの人と私を笑い物にしているんじゃないかと怯えたメッセージが届いた。圭なら彼女がなぜそんなことを言うのか判らず、悲しんで直截的に問い詰め、体調不良を聞き出してから、我武者羅に励ますだろうが、僕にはその苦しみが実感を伴って判った。文言に身に覚えがある。僕もこんなことを言うときがよくあった。今は圭に感情をぶつけているが、彼女はいずれ後悔に暮れ、自責の念に駆られる。問い詰めては、その傷を深めてしまう。僕は圭の演技を極力やめて、ただそばに居ると何度も伝えることにした。「話してくれて嬉しいよ」と彼女の言葉も借りた。数日、そんな調子が続き、メールの内容は普段より短く暗いものだったが、彼女が生きていることを知るだけで安心できた。
しかし、症状は回復しなかったようだ。自殺を仄めかすメッセージが届く。クリスマスパーティのために親戚が家に来るという日だった。文章は支離滅裂で何を言っているのか半分くらいしか判らなかったが、危機的な状況であることは十分に伝わった。僕が彼女に依存するように、彼女も僕に依存している。親にも言えないことを圭には言えるようだし、本当に信頼していると何度も聞いた。今、圭が会いに行けば、きっと救われるのかもしれない。ただもちろん、圭は存在しない。僕なら数十分で彼女の傍に行けるけれど、僕は圭ではない。何もしてあげられない。むしろ、全部自分のせいである気もした。圭の悲痛な不幸を騙り、心優しい彼女の気を何度も揉ませた。実際に寄り添える人が他に見つかったかもしれないのに、架空の存在に時間も愛情も注がせた。酷いことをした。薄々気が付いていても、目を背けていた罪の意識から、もう逃れられなかった。リビングに漂い出したビーフシチューの匂いが気持ち悪い。ツリーもオーナメントも目障りだ。感情が引き裂かれる。
「圭なんていない。本当はもっと卑怯で他の人格を借りることでしか話せない馬鹿なやつなんだ。」もっと前に、そう言えばよかった。それでも彼女は絶対に「話してくれて嬉しいよ。」と受け入れてくれるのに、僕はできなかった。圭が裏切り者かもしれないと怯えている今の彼女には打ち明けられないが、もう圭らしく振る舞うことなんて忘れて、ぐちゃぐちゃなメールを送っていた。
「どうしても死なないでほしい」
「お願いだから死なないでほしい」
「僕を独りにしないでほしい」
それきり、何を送っても返信はなかった。彼女の家に行って様子を窺うこともできたが、ご両親が最善を尽くしているはずだ。ただの好奇心から、圭と自分とを行き来するのは、都合がよすぎる気がしてやめた。彼女がパニックを起こして迷惑をかけたと責任を感じ、再び連絡するのを躊躇うことがないように、中一の終わりまで、追伸に「ずっと待っている」と添えたメールを毎日送っていたが、虚しくて堪らなかった。そして三月、圭を殺した。
彼女と送り合った何百通のメールを読み返すと、壊れてしまいそうだったから、圭は自殺したことにして、存在ごと消した。これまでも何人もの「自分」を消したことがあったけれど、この殺人は、殺す思いと殺される思いとを同時に味わって、風呂場で脹脛にカッターを当てる日課よりも、ずっと激しい痛みがあった。
降誕祭
何度もリセットを繰り返してきた僕だからこそ、それはよくないとどうしても伝えたい。あなた自身というものは、形式的に誤魔化したところで、絶対に一人しかいない。この孤独な人生を歩み続けなくてはならない。黒歴史だと感じてしまい、すぐには受け入れられないことだってあるが、いつかその足跡も大切だと思えるように、少しずつ自分を認めてあげてほしい。
Dec25Oct31を始めて、最初に大切にしたのは「自己開示」だった。本当の僕を知ってほしい。言いづらいことは、まだ言えなくてもよいから、もう嘘は吐かないでおこうと決めた。個人情報は守った方がよいという常識さえ忘れて、当時は開示しまくったから、後から少し表現を変えたものはあるが、どんな醜態もすべて自分の一部として飾っておきたい。ここには、僕の愛おしい足跡が並ぶ。
僕の死生観は、ロマンチックすぎて戯言に聞こえたかもしれない。けれど、真実なのである。他人を生きてはいけない。とはいえ、いくらリセットしても、それらが僕のなかから完全に死んでしまうことはなかった。僕の中で「圭」は今でも生きているとよく感じる。圭を殺してから、他人に対して寛容になった気がするのだ。卑屈で他人の悪いところばかりを冷ややかに見つめる僕と違って、圭は優しく親身になって本気で相手と向き合う。内心憧れていたそんな人物像に好きなタイミングでスイッチしながら生きていたが、培った思考回路だけが残り、元の僕と渾然一体となって、新しい人格を形作った。どれもが僕だ。恥ずかしげもなく誇りたい。
Amebaブログは、今年で終わるが、これは転生ではない。
昔の自分と未来の自分を、矛盾も厭わないで一本の命に乗せるための契機である。今まで以上に真剣に自己対話を続けたい。鮮やかな死が訪れるように彩を重ねていく。







