新たなスーツと教師像
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
崩れゆく冬に、優しい春の訪れを感じるね。みんな元気にしているかな。
花粉で鼻がムズムズするなぁ。できるだけ外に出たくないよ。
内省に明け暮れた一月を惜しみながら、二月は少しばかり社交を強いられたもので、限られた人付き合いの体力が擦り減ってしまった。僕も今月はできるだけ引き籠っていたい。
毎月一日の抱負記事は内実、一ヶ月の振り返りの性格が強い。感覚としては休みの最後にまとめて書く宿題の日記。その喩えでは、嫌々書いているみたいだけど、僕にしてみれば、文字に起こすという整理整頓は、リラックス効果が強いから大丈夫。むしろ一ヶ月頑張れたご褒美のデザートとして、個人的な事柄を楽しく綴り耽りたいと思えるよ。
ということで、今月も誰に向けるでもなく先月の振り返りと今月の抱負を書いていこう。
先月の振り返り
四月から中学校で子どもたちと関わる仕事をする。僕は数学でも芸術でも文学でもなく、教育学が専門だから、特別変わった選択でもない。幼い頃から描いてきた教壇に立つ夢も、いよいよ現実味を帯びてきたわけだ。
徹底的に設計した授業を演れば興奮するし、実際に中学生らと交流しても熱心に子どもたちの幸せを願える。技術や知識はまだまだ磨き深める段階にあるけれど、この精神性に関してだけは、教師を目指すに適していると感じられる。ところが、何せ分散投資ができない。きっと、実際に子どもたちを目の前にしたら、教育への情熱を微塵も蔑ろにできないはず。そのため、せっかく築いた今の暮らしが根底から揺るがされる危機を予感しているんだ。
そんな漠然とした憂慮を抱えながら、この二月は新年度から働くための準備や手続きをしていた。再三書いてきたように、僕は生真面目そうな外見と裏腹に、決まりきったことをやるのが異常に苦手である。氏名と住所を書くだけで済む紙を机に置いて、その机を使うたびに「さあ書こうか、いや、やめようか」と思い悩んでしまう。一週間以上放置していたら、提出の前日になってしまい涙目で書いた。一事が万事その調子だから、精神科の担当医にも憐れまれてしまった。それでも、労働に至るには大量の予定と書類(実際にはほんの少しだけど…)が一度に押し寄せるのに耐えるしかない。発狂必至だね。
かなり前から、二月の下旬に他の教育者らとの日程が押さえられていた。書類の確認や同期との顔合わせも兼ねて、担当者と面談するらしい。ここ数年、自由に芸術へ耽溺し続けた精神は、美に正直になりすぎて大きく浮世離れしている実感がある。自閉症くんの謎のこだわりに輪を掛けて、気難しい人間になっている気もする。僕としては、単発の予定があることも、四角四面な公務員と会話をすることも気乗りしなかったが、パスするわけにはいかない会だった。適当に障害を言い訳にした欠席理由を捏造できないかと頭を捻ったけれど、日程を変更するくらいしか効果はなさそうだから、やめておいた。仕方ない。僕は一ヶ月近く前から、自分の心を「芸術家モード」から「教師モード」に移行させる訓練を始めた。
久々に書いた数学記事
最近は、見ての通り文筆に力を入れている。文章を書く行為一般は、自分の生き方や価値観を俯瞰的に、かつ熱量を高めて捉えさせるから、まだ若さを燃料に走れる僕にとっては、幸福な悩みを与えてくれる。それに伴って、芸術的な感性も磨かれる。僕は美についてよく考えるが、突き詰めると孤高に惹かれて、たちまち現実と乖離してしまう。これが浮世離れの病巣だ。人生単位で見れば、胸を張って素晴らしき営みだと言えるが、公務員の性質にはちっとも向かなそうである。それに、文芸に明け暮れる日々では、あわや理系であることすら失念しそうになる。少なくとも、数学教師に求められるのは、美についての講釈ではないだろう。そこでまず、数学への熱を取り戻そうと考えた。
しっかり三日おきに記事を出したのなんて、いつぶりだろう。しかも「ひとしごと」の記事だ。内容もかなりきっちりしている。
期末レポートみたいな記事!読むのも大変だな!
オイラーの等式の記事はAmebaブログでも書こうとしたんだけど、数式を画像で表示するのは気に食わなくて断念したものなんだ。こちらに引越したのなら、数式をガンガン使った記事も書いてみたいって思っていたから、やっと達成できてよかった。大学で LaTeX という見栄えのよい数式を書くコードを憶えたのが役立っているな。これから教材を作るときも、こんな風に書くのかと思いを馳せて、少しは数学教師らしさを取り戻せた気もするよ。
僕には当然に「数学は楽しいものだ」という感覚がある。Dec25Oct31という名前も、数学的なジョークから付けたものだし、昔のこのアカウントは数学一色だった。とはいえ、大学受験のような必要性を酌量されてくると、数学者でもあるまいし、単に問題を解き続けるだけのことは、寒々しく思えてきてしまった。こんな価値観を、幼少の僕に聞かせたら泣いて悲しむだろうが、井の中の蛙が動揺しているだけである。もちろん、数学に限らず学問を研究すること自体は素晴らしいし、面白いと思う側面もあるのだけど、専門的な数学科の講義を一通り受けてみると、そこに没頭できるほどの興奮を僕には見出せなかった。子どもの頃は、時間も忘れて数字と格闘していられたのに、今の僕にはそれがない。興味がなくなったなんて単純な話でもない。同じ問題を見たとしても、今なら多様な視点で、数学的な面白さを見出すことができるし、話題としては関心がある。問題なのは、そこに人生を賭しても構わないという白熱がないことだ。美を求める覇気とは温度がまったく異なる。
思うに、僕にとって「数学」は道具でしかないのだ。思考や表現のために使われている。数学は楽しいものだが、いつも当然にそこに在る。きっと小さい頃は日常を詳らかに観察できる眼鏡を手に入れて「見ること」そのものが面白くて堪らなかったのだ。ただ、眼鏡を掛けて生活することに慣れたら、見えることは当たり前になっていく。これは眼鏡が不必要になったわけではなく、むしろ依存度は上がっているのだと注意したい。そういう機序で数学を捉えていると意識すると、専門的で高度な数学に魅力を感じない理由も解る。僕は世界を見たかっただけの人間であって、レンズを研究したい人間ではない。だからこそ、リー代数よりは離散数学が好きだし、もっと言えば、数学教育を専門に置くのだ。眼鏡の必要性を熟知して、表現の奥深さも愛せるのなら、自然と多くの人にこの価値を啓蒙しようと試みる。このように整理すると、本当に好きなのは数学そのものではなく「構造」だと気が付いた。
オイラーの等式のような構造美を鑑賞することや、効率よく巨大数を作り出すための構造の設計手法を見つめることは、数学を通じて培いたい本質的な能力に強く結びついている。僕は数学を学び、論理的思考力を身につけ、体系的な構造に美を見出せるようになったことで、芸術的な表現に手を伸ばすようになった。小説を書くにしても、音楽を作るにしても、数学的な見方・考え方を使っている。人々にこうした腕力を与えるのが数学教育だ。
教師は、ともすれば学習者の教科における知識・技能の伸長のみに躍起になってしまう。数学は特に、問題が解けたか解けていないかをデジタルに判断しやすいため、作業的に教育方略を練ってしまうこともできる。世界をよく見られる眼鏡は全人類が有するべきだが、レンズ技師の能力は全人類には要らない。その点を弁別しつつ、世界の美しさを教えられたらよいと思う。案外、数学教師には、美についての講釈が求められるのかもしれない。
オーダーメイドスーツ
数学についてあれこれ考えていると、狙い通り教育者としての気概を多少は取り戻せた。内面の問題はひとまずクリアとして、次は外見の準備についての話をする。
というのも、伯母さんがお祝いにオーダーメイドスーツを贈ってくれるということで、スーツ屋に出向いたのだ。スーツはアルバイトのために間に合わせで買ったUNIQLOの安物しかないし、よい機会である。それに、社会へ歩み出すための餞にも思えて、儀式的な趣きも感じられた。どうしても僕は、ネクタイを首輪とリードに見立てて、労働者が資本家の犬にされているような風刺画をイメージしてしまうもので、社会人というロールに当て嵌められることに忌避感があるが、ファションとしてスーツの見た目は気に入っている。
そう考えると、教師という属性は悪くない。「上層部に雇ってもらっている」という感覚が薄いため、リクルートスーツのような従順さは必要ないのだ。また、これは偏見だが、教師という人種はスーツを着ていれば、単に「スーツだ」と思うだけで、どんなスーツであるかまでは判断できなさそうにも思える。ジャージにスラックスを履く不思議なファッションもまかり通るのだから、そんなもんだろう。そこで僕は、せっかくのオーダースーツは、自分の個性を反映したものにしようと決意した。社会人のロールを全うするための衣装ではなく、黒板を背にしたときに映える僕だけの舞台装置だ。
そこで、このクリハロのイラストを意識することにしたんだ。さすがにシルクハットはしないけれど、ブルー系のベストは、ぜひ欲しいと思った。
まず採寸をする。病気かと思われるほど細過ぎるウエスト、吹いたら飛んでいきそうな薄い胸板、その割に長すぎる腕。多くの異常値が並んでいくのは、自分のフィジカルを知れて面白い反面、恥ずかしくもあった。大丈夫か、僕、気持ち悪過ぎやせんか…と、心配になってくるけれど、サンプルのスーツを着せられると、こんなにフィットする服が存在するのかと驚愕した。人並み外れて痩せている僕に、フィットする既製品は売られていないようだ。今まで「ぴったり」だと信じていた感覚には、まだまだ改善の余地があったのだと知った。
ところが、そうやって合わない服ばかり着てきた“ぴったり音痴”であるから「袖の長さはAかBかどっちの方がいいか?」などと問われてもよく判らない。視力検査で赤と緑どっちがよく見えるかと問われる気まずさに似ている。素直に「どっちでもいい」と言うか、適当に「Aだ」と言うか、とにかくどちらかを早急にすればよいのに、こだわりは人一倍強く、服にまつわる感覚過敏もあるから慎重になってしまい、一般的な購入客の倍ほどの時間が掛かって申し訳なかった。不気味な体型にも、不器用さにも、少々落ち込んだが、スーツの生地やデザインを選ぶ時間になると簡単に心は弾んだ。

このクリハロのカラーパレットを出して、#1D3D5D の色に近い生地を探す。ネイビー系だから、若々しく清涼感のある印象になるはずだ。自分で言うものじゃない気もするが、僕は知的でスマートな印象を与えるのが向いていると思う。だから、それに加えてストライプを入れたいと考えた。また、二着作るつもりだったため、サブとして明るい印象を与えてカジュアルに着られるグレー(サイトのサブカラー)のスーツも併せて作ることにした。
勿体ぶらないでさっさと見せよう。こちらが出来上がった二着のスーツだ。

そういえば、体型のわかる写真を出すのは初めてな気がするけれど、実は僕にも胴体が付いている。いかがだろうか。姿勢がぎこちないのは決まりが悪いが、体型にフィットした服が大切だというのがよく解った。クリハロをイメージしたデザインにできて大満足である。ボタンの種類や切れ込み、裏地のデザインだとか糸の色だとか、選ぶ項目が尋常じゃなくあるため、決めるのは一苦労だったが、カラーパレットを作っておいてよかった。ベストの裏地を深い赤(サイトのアクセントカラー)にする選択は、それがないと発想し得なかっただろう。

板書をする際は、ベスト姿で背を見せることが想定されるが、黒板の深緑と合わせたら、彩度を落とした三原色が均等に配置されて、統一感があるんじゃないだろうか。ちなみに、イラストでは初期の頃からベスト姿だが、実際に3ピースのスーツを着るのは、これが初めてだった。新しい種類の服を着るときは、いつも感覚過敏にならないかビクビクするのだけど、ベストの胸や脇を締め付ける感覚はとても気に入ってよかった。ぴったり音痴はすっかり治って、次はぴったり潔癖になりそうである。
それから、デパートの紳士服売り場を散歩していたら、運命のネクタイを見つけた。

あまりにもクリハロカラーで笑ってしまった。衝動買いするには少し高かったが、スーツを作ってもらって気が大きくなっていたようで、我慢ならずにその場で買った。目的もなくウィンドウショッピングをする人間を馬鹿にしてきたが、自分もこんな購買行動をしてしまうのだからもう論えない。こうやって矛盾を重ねて、大人は丸くなっていくのだろう。
内心、社会人として働くための制服だと思うと、幾許か嫌悪感があったのだが、僕の個性を遺憾なく発揮できる完璧な舞台装置を仕立てられたことで、期待感で上書きされた。やはり美がすべてを解決する。生きるには、憂鬱に新たな意味づけをする創造性が肝要なのだ。
教育者に求める多様性
数学について考えたり、スーツを作ったりして、かなり「教師モード」にはなれた。なんとか書類の用意なども済ませ、胃を痛くしながら教員の卵たちとの顔合わせに向かう。もちろん一般的な感覚で言えば、大した用事でもないだろうが、僕にとって、初対面の大人との社交は、この上なく気が滅入るのだ。
三十分以上早く着いて、寒空を仰いで待っていた。慌ただしくドミノ倒しに予定が始まってしまうのが嫌で、どんな予定に対しても昔からそうしてきた。自分が時間を支配しているという感覚が大切なのだ。最近は目覚ましすら掛けない。
何もしないをしていたら、突然、見知らぬ紳士に「もしかして…」と自信なさげに名前を呼ばれた。察するに教育委員会だとかの人だ。初対面だというのに顔と名前が知られているのは一瞬だけ不審に思えたが、自閉症などの障害をオープンにして申し込んでいるし、経歴も特殊だから、送った履歴書が有名なんだろうと合点した。加えて、建物の前で立ち止まってひたすら呆けている人間は、何かしら気が触れていそうだと考えたのかもしれない。何にしても、その声掛け自体が、公務員たちにプロフィールを熟読され、特に障害に関しては受け入れられているんだろうということの証拠だった。
慣れたものだが、僕と初めて会う人間は、腫れ物に触るように慎重に話す。真っ当な人であればあるほどそうする。教育の世界に身を置く紳士は、もちろん例に漏れず鹿爪らしい。そういう人とは、話したいと思うことがない。排他的なのを悪く思う世の中だが、僕は心の中で排する気持ちを有耶無耶にして、制度上だけ同朋として扱うことには寛容でない。嫌いなら嫌いと言えばよい。判らないなら判らなくてよい。嫌いであること、判らないことを、話し合ってそのまま面白がりたい。だから、形式だけ多様性を尊重しようとする浅はかな者には、笑いづらい自虐の冗談を言って、困らせるのが好きだ。「僕はそういうのを気にしない人間だけど、君は気にしているんだね」というメッセージを含ませて、心の隔たりを明瞭にしたい。そんな面倒な人間を演じていたら「まだ少し時間が掛かります。寒いですが、もうしばらくお待ちくださいね。」と言って、紳士は建物へ消えていった。
紳士は当然まったく悪い人ではない。それどころか非常に善人である。サッカー部を馬鹿にする癖に、学級委員さえ冷笑するような僕がいけない。教員に向いていないなと痛感するけれど、それなら何に向いているのか判らない。生きていくのに向いていないか。うなじを冷たい風が通り抜けて、僅かに身を縮めた。
会合が始まっても、あまり気持ちは晴れなかった。同い年くらいの若者数名が集められ、担当者の話をありがたがって聞く。最初と最後に合わせてお辞儀をするのが嫌いだという感覚を久しぶりに思い出した。大人になってもまだこんなことをするのかと呆れ返って、僕は明後日の方を向いて頭を下げなかった。けれど、中学生の頃のように怒られることはない。大人は、静かに嫌われて、静かに弾かれていくのだ。心地悪くはない。それから、担当者のスピーチの内容が、あまりにつまらなかった。社会人にはインプットとアウトプットが重要だとか、教師は五者たれとか、陳腐な内容をさも大発見であるかのように話す。メモを取っても構わないなどと言うのには、さすがに吹き出しそうになったが、いくつかペンが走る音がして、さらに落胆してしまった。本当に素晴らしい話だと感銘を受けてメモを取ったのであれば、感性と教養のなさが憐れだし、ここでメモを取る真面目な人間だと見せつけて、媚びるために演技したならば、その同調圧力を生むのをよしとする感覚で、子どもたちの前に現れないで欲しいと感じてしまう。どちらにしろ、悲劇であることは間違いなかった。
同輩たちと雑談をするとき、まだ教師ではなくとも公務員気質はしっかりあるのだと感じられた。揃いも揃って異様に遜ってばかりいる。誰が決めたわけでもないのに、司会かカウンセラーかのように会話を回そうとする。まるで、上位の存在に監視されていて、人に優しくしていると判定されないと殺されるかのような感じだ。先ほどの紳士も、若い頃は優しさを演じるのがもっと下手で、こんな調子だったんだろうかと想像できた。きっとこれでも、就活生の振る舞いには及ばないだろうから、僕は絶対に一般企業に就職することはできないんだろうなと、何度目か分からない確信をする。それにしたって、話があり得ないほど面白くない。敵ではないと示すだけの人間に興味は湧かない。浮くのがそんなに怖いだろうか。量産的な特徴のないスーツの集団に、ネイビーのストライプは馴染まなかった。
でも、僕だって今日は社交を頑張ろうと決めて来たのだし、愛嬌を振り撒いてばかりいる人には抵抗感があるが、全員がそうだというわけでもない。息を整えて、隣に座っていた無口そうな女子に「大学でどんなことしているの?」と訊いてみた。すると「うーん、古代エジプトについて研究してる」と悩んだ調子で言われた。きっと、もっと複雑で細かい内容を研究しているんだろうが、数学科の僕には伝わらなそうだと思って言葉を選んだのだろう。わかる。僕も数学で何をやっているのかと問われると言葉に詰まる。確かに僕は世界史に明るくないもので、深い話はできそうにないが、知らないからこそ興味が湧いた。教育や学校についての話をしていないのは、ここのテーブルだけだった気もするが、僕としてはその方がよかった。彼女は年に二回くらいエジプトを訪れるらしく、話は紀行譚としても面白い。「アレクサンドリアには絨毯に包まって行ったの?」と尋ねてみると、信じられないくらい笑ってくれたので、僕も上機嫌になって話していた。
やはり、ロールを通して話そうとするのがいけない。人間は一人ひとり面白い。社会人であるとか、教師であるとか、自閉症であるとか、そういうラベルは個人という点を表現するにあたり、必要であったとしても、十分ではない。子どもたちに対してだってそうだ。彼らには彼らなりの視点があって、それを集団の一部として勝手な尺度で測ってはいけない。就活生にはそこまでの嫌悪感を抱かないのに、ここにいる人たちには、その半分の臭みを嗅ぎ取るだけで嘔気がしてしまうのは、その懸念に因る。本質を見つめ、本当に誰一人取り残さないような教育を考えられるか気になってしまうのだ。個人を見なくてはいけない。未来の社会の創り手が、好ましくないものを好ましくないと思ったまま、それでも愛おしめるような柔軟な価値観に辿り着けるよう、伝統や常識でブレーキを掛けてはいけない。
一般的な公務員の採用に比べて、教員採用においては、障害者枠での採用者数がかなり少ないらしい。特別支援学校以外の学校に絞れば、障害者枠の教諭が働くことは極めて稀である。数そのものというよりは、採用基準が画一化を望んでいるように見えることが問題だと思う。子どもたちに多様性を求めるように、教育者にも多様性が重要である。どんな人間にも得手不得手はあるが、教育者が多様であることによって、すべての子どもたちを包み込めるのだ。それは、より多くのラベルに対応できるようにするという表層的なことではなく、真に「この人」を面白がる人間力を高めることで本懐を遂げる。
先月の抱負「人との時間を大切にしよう」は、僕の基準では達成と言ってよいと思う。ただし、予想していたゴールではなかった。確かに人との時間は大切だと感じたし、他者のことをよく考えた一ヶ月ではあったが、それ以上に自分のコミュニケーションのあり方や、子どもたちへの接し方について考えさせられた。コミュニケーションに向いていないのは、認めざるを得ないし、これからだって何度も苦しむことになるだろう。けれど、その苦しみにだけ身を置かなくてもよい。僕には僕のよさがあるし、僕が異質な教育者であることによって、教育者の多様性の一翼を担っていられる。
数学教師になることは、幼い頃からの夢だったが、視座が高まるにつれ、無闇に白熱することもなくなった。これからも胸の中で燃えるのは「表現者」としての熱意だろう。憧憬の灯台として、子どもたちに道を見せること。そのために表現力を利用できる。ただし、これはライスワークでしかない。金を貰わずに本当にしたい表現を極めるライフワークこそ、心の底では大事にしておきたい。その方が真っ当だ。子どもたちに見せても恥ずかしくない。
今月の抱負
さあ、今月の抱負を書いていこう。
書きたいことが多すぎて、一万字近いとんでもなく長い記事になってしまったよ。普通に考えたら、各小見出しを分けて別の記事にしてもよいくらいだと思うけれど、全部通して、一ヶ月に思っていたことなんだ。読んでくれた人は、どうもありがとうね。
クリハロくん、この記事、一気に書いてたけど一体何時間かかっているの…?
過集中で書いたから、あんまりわかんない…。十二時間くらいかな。それにしても、こういう気の向くまま書いていられる時間も、いつか取れなくなるのかな。四月からの不安もあるし、宙ぶらりんでいられる最後の一ヶ月が恋しくもある。でも、そこで何ができるかというより、何もできず憂鬱に過ごしていたいな。未来にばかり目を向けるんじゃなくて、今までの道のりを一旦振り返って慈しみたい。ということで、三月の抱負はこうしよう。
「家族との時間を大切にしよう」
スーツを買ってもらったり、バレンタインデー(僕にとっては家族からチョコレートを貰う日である)もあって、正月に引き続き、親戚との交流が多かった二月だけど、四月からあまり時間が取れなくなるなら、ちゃんと感謝しておきたいという気持ちになった。家族には「こんなに面倒な僕とよく暮らしていられるなぁ」って本当に感じるんだ。他人と関わってちょっと傷ついたりすると、改めて実感するね。十二時間ぶっ通しで文章を書いていても、お弁当を作っておいてくれるし、二十歳を超えているとは思えない生活力のない僕を支えてくれている。できることは限られているけれど、少しは恩返しがしたい。人は役割に心を擦り減らされて、すぐに「自己・家庭・社会」の重要度を逆転させてしまう。僕にはもう少し柔軟性が要るかもしれないけれど、ここを決して見誤らないことが、僕のよさだとも思う。自己と家庭の距離感、自己と社会の距離感。これをしっかり推し量っておきたい。社交の体力は尽きているから、甘えっぱなしになる可能性もあるけれど、ゆっくり流れる時間を大切にしていよう。








