朝の泉
糞をしているとき、歯磨き粉の溶け出した液体が口から漏れて亀頭に垂れた。痛みに似た清爽な刺激が浸透してくるから、紙を巻き取ってせっかちに拭く。驚いて、歯ブラシを咥えている口を開きそうになったが、唾液は限界まで溜まっているのだ。堪える必要があることは、早朝につき再起動中である頭でも理解できた。むしろ、口をきつく結び、息を止める。一度意識が向くと、今までどうして溢れんばかりの口内を意に介さずに居られたのか判らなくなる。
漏れないように天井を仰ぐと、蛍光灯は薄いベールを纏って淡く膨らんでいた。眩しく、何度も瞬きする。それでも光が散乱するのは治らなかった。この眼鏡は寝起きにしか掛けないから、レンズが汚れているのかもしれないし、連日の眼精疲労が祟っているのかもしれない。数時間後にはスーツ姿でパソコンに向かっているのかと思うと、対比して今の自分が惨めになった。ズボンを足錠のようにして露出させる情けない性器と、口いっぱいで一言も話せず上を向く汚い髭の間抜け面。鞭で叩かれたり、ピンヒールで踏まれたりしたがる変態と何も変わらない。まだ肛門を通過できないでいる糞を仕方なく待ちながら、眼の力を抜いて朧な灯りをさらに曖昧にした。
私は朝の身支度で急ぐのを厭う癖に、暇は持て余してしまうらしい。毎日、歯磨きと排便を同時にするのだ。洗面台に向かって覇気のない相貌を睨み続けるほど自分の姿形に興味はないし、液晶に流れる騒々しい情報をはっきりしない意識へ垂れ流すのも物憂い。明確に定めたつもりもないが、いつの間にか歯磨きの間には、コーヒーの用意と糞をするようになっていた。誰しも決まりきった一連の動作にわざわざ集中していられないから、何度も繰り返す内に効率よく実行できるよう行動が洗練されてしまう。私にはこれが恐ろしくて仕方なかった。平日の朝というのは、手続き化できる代表であるが、私だけの清々しい朝が労働の準備としてだけ消費されるのを拒まなくては人間でない気がした。僅かな抵抗として、五の倍数でない中途半端な時刻に目覚ましを掛け、一時間以上掛けて家を出るようにしている。そんな価値観を持ってもなお忙しくしたがる矛盾を、大量の唾液によって指摘され、余計に呆れるのだった。
朝は不必要な決断を極力減らす方がよいと、意識の高い先輩に忠告されたことがある。同じ服しか持たない実業家に憧れて表層だけを真似する彼の得意そうな風体は、仮面ライダーの変身ポーズを忠実に再現する甥と似通っていた。だから、私は一日の初めに気に入りのスピーカーから鳴らす音楽を決めることにしている。先輩には断罪されそうなものだが、生き急ぐ社会人を斜めに見て、優雅に過ごすことは気分がよかった。学生の頃はロマン派のピアノ曲を好み、一時はモダンジャズに傾倒した。最近はスペイン語圏のラテン音楽を積極的に聴く。今もリビングにはサルサの軽快な音色が充満していて、トイレに居てもティンバレスやコンガのリズムを受け取れるのだ。この形而上に訴えかけるような不明瞭な聴覚体験に没頭するあまり、口腔内へも括約筋へも注意が逸れてしまった。生き物としての不憫を体現する私とは無関係に、底なしに元気な音楽が聴こえることも情感を煽る。現代アートの出発点と言われるデュシャンの『泉』が男性用便器であることも思い出し、その重なりに小さく高揚した。
歯を磨くのは一旦やめて、ひたすら排便に集中していると、糞は簡単に音を立てて排出される。さっき拭いた紙の上に落ちたため、大きさの割に静かな入水であった。できるだけ猫背になって、その上に泡立った唾液を吐き出す。褐色の糞が白く粘度の高い液体で汚された。歯磨き粉が含まれる液体によって洗浄されているとも捉えられるだろうが、私には悠々と便器に居座るはずだった大便が汚されていると思えてならない。萎れた陰茎越しの作品を、ぼんやりした眼でしばらく眺めていた。



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