書く
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
この記事は、Amebaブログのリメイクです。
最近は書くことについて考えすぎているような気がするね。ブログもそんな内容ばかりで、つまらなかろうけれど「この時期にはこんなことを考えていたのか」と後々振り返れることを楽しみにして、今日もただ書き連ねようと思うよ。
今回は「名もなき哀れ」という表題を掲げた。
眠れない夜に僕を執筆に駆り立てる燃料の正体は何かと探っていると、まずは言葉によって切り取る対象を明らかにしたくなった。いかなる事象も言葉で説明を与えることはできると感じるのだけれど、コミュニケーションや単なる記録としてでなく、芸術的側面を重要視して書く場合、「描きたいもの」は凡そ決まっているんだ。僕にとってのそれに、端的に名前を付けるなら「名もなき哀れ」だろうと考えた。
以前のこの記事では、僕がなぜ書こうとするのかについて即興的に考えてみた。今回は、もう少し本質的な問いとして「書く」という行為によって何が起こるか、そして、あえて書きたいと思うのなら対象はどのようなものか、矛盾も厭わないで、ああだこうだと考えを巡らせてみることにするよ。
クリハロくんは「樅木 霊」として小説やエッセイも書いてるよ。
もしよかったら、読んであげてね〜! 樅木 霊
量子力学的観測
量子力学というのは、その難解さと非直観的な結果から、名前のキャッチーさだけを使ってスピリチュアルな方向性で語られることもある。理系の端くれとして、そうした使用を避けたい気持ちもあるけれど、どうしても「書くこと」の比喩として正鵠を射ていると感じてしまったから、ここでは使わせて欲しい。
量子力学において「観測」というのは、特別な意味を持つ。
例えば、ミクロな世界で粒子が「上を向いているか」「下を向いているか」というような状態は、純粋な確率分布として、重ね合わせられたまま存在するのだけど、一度“観測”をすれば、ある一方の状態に決定されるんだ。下向きだった粒子は、そのあと何度見たところで下向きなまま。つまり、自然な状態では不確定な確率でしかなかったのに、わざわざ観測することでただ一つに固定される。そうやって、見るだけのことが現象に作用するというのは不思議に思えるよね。
「書く」という行為は、これによく似ていると思ったんだ。
すべての事実、情景、感情などは、本来は言葉を伴わずただそこに在る。でも、それを人間が意図的に意識するためには、言葉で切り取る必要がある。これは量子力学的な観察のように、ただ認識するだけのことでありながら、実感そのものに作用する独特な感覚があるんだよね。
カップヌードルの観測
僕は夜中にさっさと空腹を満たしたくなると、カップ麺を食べる。シンク上の蛍光灯だけを点けた暗いキッチンで、仕方なく日清のカップヌードルを食べるのは、なんと質素で粗雑な食欲の宥め方だろうと虚しくなることもあったね。
ある日、スーパーで何も考えなしにまたカップヌードルを補充しておこうとしたんだけど、別にどうせ夜中に適当に食べるものであって、味にもさほど興味はないし、ちょっと安いカップスターでもよいんじゃないかと考えたんだ。とりあえず一つ買ってみて初めて食べてみると、そこまでの不満はなかったけれど、カップヌードルの方が若干好きだとも思えた。その経験をしてから、カップヌードルを買うのも食べるのも、少しだけリッチな気分になったんだ。カップスターよりもやや高いカップヌードルをあえて選んで食べているという実感を持つ。そうすると、虚しく惰性で食欲を満たすだけだった真夜中のキッチンがほんの少しのご褒美に思えて、一日を清々しく締められるようになるんだよ。その結果、空腹を満たすという実用性よりも、夜中まで作業をした達成感だとかをカップヌードルが彩れることの方が大切になって、夜食の頻度が上がったことは秘密だよ。
こうしたエピソードを書き記したこと、あるいは一連のストーリーを言語を使って論理的に組み立てたことで、僕のなかでカップヌードルは「真夜中のご褒美」として観測された。ただ自然にそこに在ったカップヌードルには、胃腸を通過するだけの役割しかなかったけれど、実感を伴う言葉によってカップスターと比較したことをきっかけに、僕にとってのカップヌードルの在り方が丁寧に見澄まされ、もう揺らぐことのない固定化に至ったんだ。
僕らは、頭の中で考えるのにも、考えを明確に表すのにも、言葉を用いる。極端な言語思考である僕は、特にその傾向が強いかもしれないけれど、多くの人が名もなき感覚を、名づけもしないままに実感することは難しいんじゃないかな。
観測と芸術
例外として、僕の好きな、変人の作曲家エリック・サティを紹介しよう。彼は曲を作ることを「観察」やら「測量」という言葉を使って表現することがあった。拍子や調といった音楽としての骨格を取っ払って、思いのままに楽譜にしようとする試みには感銘を受けるもんだね。彼の言う「観察」は、今話している量子力学的な観測とは別だと思う。情景や感情を具に体感して、なるべく無加工のまま徹底的に別の感覚である聴覚情報に翻訳することを指している気がするね。言葉を経由せずに考えられるという稀有な芸術家には可能なのかもしれないけれど、矮小な僕にはどうしても難しいと思える。僕は作曲もするんだけど、楽曲の細部の意図を一つ一つ説明しろと言われたら、言葉によって常に可能であるというくらいに、ひとまず言葉にしておかないと気が済まない。
確率分布のような実態を、不確定な“正しい状態”のまま表せる芸術に手を伸ばしたくなる気持ちも解る。一方で「書く」という量子力学的な観測は、暴力的なほどに実存を縛り付けるから、上手くやれば作者が自在に世界を構成できる手段だとも言える気がするんだよね。
僕が理想とする「表現者」というのは、どんなに小さい世界でもよいから、とにかく傲慢な創造主になれる存在なんだ。他者によって行動や感情を規定されることなく、極めて個人的な神に成り代わりたい。もっと欲を出して言うと、人類が総じてそういう志を持っていて欲しいと思う。それを僕は「人は皆、表現者である。」というスローガンで示しているんだ。
しかし、ともすれば「書く」ということへ責任を感じてしまう。自己に内在する感覚を描写するよりは固定化の強度は弱いと思うけれど、「読む」というのもそれなりに価値観に作用する行動であろうから、無闇に振り回すのは危険かもしれない。また、それより悩ましいのは、本当にその状態で固定化させてよいかという問題。サピア=ウォーフ仮説のように、実際に言語が認識にまで作用するのかまでは、僕は判らないけれど、今までした記述の総体が、今後の僕が作り出す世界に影響を与えるのは間違いない。現実という形のない靄を記述によって冷やし固めて、自分だけの氷の城を築き上げようとしているのだから、不必要なブロックはできるだけ作りたくないよね。また、一人の人間として感じ取れる世界の境界面は有限であるから、どれも大切に書かなくてはいけないと思えてくる。
クリハロくんは、「書くこと」を「量子力学的観測」だと捉えていて、不確かな現実を言葉を用いて自在に切り取り、事実や情景、感情に対して、実感を伴った価値を固定化する行為だとして、一連の芸術的表現のために丁寧に扱う必要があると感じているんだね。
哀れを愛したい
視点や感情が固定化されることへの恐れを抱きながらも、書き続けたいものとはなんだろう。第一、何も書かなければ、すべてを柔軟に変えられる超感覚的な価値観で居られるのだし、僕が大切にしている「自由」というのがそんな状態を指すのだとしたら、「書く」ということは、夢中になって自分を檻に閉じ込めていくような所業だとも考えられるよね。
でも、僕は完全な柔軟性を自由とは思わない。膨大な可能性があることが自由なのではなく、実際にテーブルに並べられる選択肢の多さこそが自由の証なんだ。
この世に裸で無知に生まれた瞬間は、無限の可能性に囲まれていた。なのに、選択肢は大声で泣くことくらいなもんだったね。僕らは小さな点として生まれ、その表面にあるものを認識し、言葉で定義し、実感できる血肉に変えてきた。点でしかない方がより速くより強く空間を飛び回るが、立体として大きくなるにつれ、その動きが落ち着いてくる。ミクロな粒子よりも体積を持つ剛体の方が、ずっと予測可能性があることは確かだ。けれど、その不自由は無味乾燥なものではない。表面積が増すことで、認識できる感覚が増大し、次に体をどの向きに伸ばすかという選択肢は多くなっていく。火星人と友だちになる方法と、好きな子とデートする方法を、並列に悩んでいても仕方がないように、無闇な可能性よりも、現実と照らし合わせた明確な選択肢の方が当たり前に価値があるはずだ。
空間に放り出された立体として自分を客観視すると、書くというのは、固定化によって自己を肥大させ太々しくする単なる足枷だと映るかもしれない。しかし、人生を行く一人称視点で居てよいのなら、選択肢を増やせる幸福でしかないんだよ。
ここまで考えてみると、何を書けばより多く選択肢を増やせるのだろうかという問いが自然と生まれる。そして、これこそ「名もなき哀れ」なんだ。
固定化させて捕まえる
前述の通り言語でばかり思考する僕は、あえて書かなくても次第に視点が固定化していく感覚がある。自閉的な性質に因るのもあるだろうけれど、日常生活の上でも他人よりは明確な言語化を強く求めている気もする。それでもなお、意識的に芸術を介した創造として文章にするものは、日々の再生産や投射でなく、そういう時間を設けない限り目が向かなかった複雑な論理や心情であるべきだと思うんだ。
ただ考えるだけのことでも、むくむくと固定化した感覚は膨らむけれど、改めて書くとなると、その細かさや深さは比べものにならない。今こうして、「書くこと」について書いているのも、思考を整理するのに役立っている感覚が強くあるし、幼少期のエッセイを書いてみても、なんてことのない心象風景が彩度と解像度を増して煌めき出したのを憶えている。流れていく出来事や感覚は縛り付けでもしない限り、記憶力の乏しい意識から、たちまち消え去ってしまう。もしくは、単なる事実は暗記していられるかもしれないけれど、そのときの風味や些細な色合いといった本質が押し並べて褪せてしまうのだ。
だからこそ「哀れ」に目を向けたいと思う。
「哀れ」というのは、可哀想だと思うことという意味もあるし、人の心を強く打つような感動や、しみじみとした情趣という意味もある。軽妙な滑稽であったり、痛快であったり、歓喜の一切は、殊更書き起こさなくとも実感に残り続けるが、当然に思えている日常や、目を背けたいもの、まとまらない心境だとかは、一度目を離せば即座に霧散してしまうような不確定な状態で心を漂っている。矛盾したままの澱を掬い上げ、少しずつ固定化させながら、それを自分らしさとして受け入れることで、即効性のない本物の感動が作られる気がしないだろうか。そんな流動こそが「哀れ」だ。特に、まだ名前も付いていなかったような微かな発見は愛おしく、大切に書き起こすことで世界の見え方が自分だけのものになっていく。
僕らは、異世界に転生することも、密室トリックを暴くこともない、退屈で、平凡な生活を送っている。しかし、駄文を書き連ねる退屈を幸福だと捉えられると、カップヌードルを食べる平凡に哀れを見出せる。
そう思うと、フィクションの物語を書くのは、他者の世界をその視点で体感するという、単純に考えるだけでは絶対に到達しなかった観測のあり方に思えるね。
「書く」ということは、見過ごしてしまいそうな「名もなき哀れ」という、不確定な感覚を固定化させ、モノトーンの日常を虚構という真実で彩色する愛おしき行いだ。僕は今日もその効果を実感し、何もしなかった一日に満足して目を瞑る。









