2026年2月

ただ「美しい」って

 当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。

クリハロ

どうも クリハロ です。

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 布団から出られないで過ごしていたら、いつの間にか一月が終わっていた。

お引越しするとか言っておいて、ブログを一件も出していないよ!

 僕も新しいこの場所で、いろいろ記事を書きたかったんだけど、寒くて憂鬱で仕方なかったんだもん…。それでも、内省に耽り、芸術的な感性を働かせた年始でもあったな。久しぶりのブログで、書き方も忘れ気味だけど、月初の先月の振り返り今月の抱負を書くよ!

先月の振り返り

葬明

 昨日、出した新曲『葬明』は聴いてくれたかな?

葬明
31日のおまけ その10

 いつもは音声合成ソフト(VOCALOID)を使って曲を作っているけれど、今回は自分で歌ってみたよ。加工しやすい均一な歌声のボーカロイドと違って、下手で不揃いな僕の歌声は、なかなかミックスが難しかったな。去年一月に「31日のおまけ」で歌った曲(深呼吸)よりは、改善したと思うんだけど、まだまだ修行が必要だね。
 ただ、自分で作っておいてなんだけど、歌が難しすぎた!特に音域は気が狂っていて、C2(lowC)からF5(hiF)っていう3オクターブ半のバカな設定になっているから、普通に歌えるわけもない。僕も通して歌うのは絶対に無理…。こんな音域なら、ボーカロイドでやっておけよって話だけど、今回は自分の限界に挑戦したいと思って、僕がなんとか出せる音域ちょうどで作ってみたんだ。はちみつを舐めたり、温かいものを飲んだりして、たまに出ることもある奇跡的な音を繋ぎ合わせて、ようやく完成させられた。
 というのも、今回の曲は自分の「身体性」を全面に出した曲にしたかったんだ。最近、生まれつき悪かった視力が、もっと悪くなってしまって、しばらく落ち込んでいた。何もできなくて自暴自棄になってみたり、不自由を体感したくなくて、ひたすら寝込んでみたり…。でもやっぱり、僕にとって憂鬱は芸術の種だったんだ。「見えなくなること」「視覚から離れた世界を生きること」それらを芸術に昇華させたい。そんな想いが膨らんで、作曲という形で実を結んだ。だからこそ、僕が今できることで構成するのが大切だと思ったの。なるべく楽器の数を減らし、打ち込む音も丁寧に鉛筆で置くんじゃなく、即興的にMIDIキーボードで演奏するようにしてみた。曲終わりにある環境音も、早朝に散歩しながら、空へとスマホを掲げて録ってきたんだ。光を失った中でも、音によって確かに世界を感じられる。そんな諦観を追体験できる曲になったらいいな。
 だけど、簡単に全部を解った気になって欲しくはないという天邪鬼な気持ちもあるんだ。音楽は数分で鑑賞が終了するものであるし、感覚的な体験を分析的な理解だと誤認することがよくあると思うしね。一分間暗転した画面と向き合ったところで、それは一生じゃない。失明の体験には及ばないし、誰もがその画面を見るなら、そんなに怖くもない。見えないことの辛さの本質は、自分だけが世界から取り残されているように感じる孤独感だと考えた。そこで、歌詞を“見て”読んでもらう場合にのみ、難読の漢字表記が襲うようにしてみたよ。ものすごく考えて、歌詞や文字表記を決めたから、意味は含んでいるんだけど、なんとなくの感覚では受け取れないと思う。自分だけが判らないという孤独感を実感できるだろうか。頑張って障壁を乗り越えて、調べながら読み解いてくれたなら本望だよ。そうやって立ち止まって鑑賞してもらえるものを作りたかった。それでこそ「美しい」って惟えるから。

路地

 こうして視力が落ちたことで「視覚」についてあれこれ考えていた。すると芸術への意欲は、音楽だけでなく文章表現へも向いて、お正月には掌編小説『路地』を書いてみたよ。

 1600字という限られた空間で、いつも様々な実験を試みるけれど、今作は特に大きな挑戦になったな。それは、主人公を不在にすること。強いて言えば、路地自体が主人公かな。いつもの一人称視点の語り手だと、高々人間の眼球程度の視力しか持ち合わせない。でも、三人称視点、つまり神の視点を手に入れれば、無限の視力で世界を描写できるよね。何を見て何を見ないか。その取捨選択自体を作品としたかった。
 前回の『幻視痛』は、僕の最高傑作だと思っているのだけど、無理に気になる点を挙げるとしたら、それは物語性を排除しきれなかったことだろうな。空想であることを明かした夢の描写を徹底するだけでは完成させられず、最後に現実の妻へ言及することで、背後の物語を想像させる形となった。もちろんそれが「面白い」と考えたわけだけど、さしずめ筆が面白さに囚われているようにも感じられる。本当に「美」にだけ注力するのであれば、物語は足枷だと言えるかもしれない。加えて、倒錯したフェチズムやグロテスクのような、普段は美しいと思えない事象を、敢えて取り上げて「これこそが美だ」と声高に示す逆張りなど、文芸においては、むしろクラシカルで簡単なことだと感じもした。見渡せばいつもある当然の美しさを、堂々と真正面から書く方が、ずっと難しいのではないか。そう考えたときに、無限の視力が見つめる相手として「路地」が浮かんだ。
 何もない路地。でも、本当に何もないのだろうか。時空を自在に圧し潰し、引き伸ばす。目を閉じたまま、精密に路地の様子を見つめる。詩集のように、身近に置いておける「美」を作りたくて、読者各々が慣れ親しんだ近所の路地を想像したところで、破綻しないようにしたかった。具体的な場所はどこを想定しようとも、もしかしたらそんな一瞬があるんじゃないかと考えられる柔軟性を、逆に繊細すぎる描写を重ねることで実現させたんだ。トイストーリーやサンタクロースのような日常への煌めきを、夢が醒めた後の僕らにも与えたい。誰も見ていない、誰も見えない、そんな場所は視力に頼らないからこそ書けた気がするよ。

音楽にしても、小説にしても、ずっと一人きりで内省に耽っていたんだね。

 鬱っぽくなったけれど、それがよい方向に働いて、芸術に対してだけは精力的だったな。ということで、先月の抱負「布団の中で芸術に浸ろう」は、十分に達成だね。

ゼロカラコンピ

 僕が個人でやっていたことは、そんなもんだけど、先月はもう一つ、Dec25Oct31の名前で活動したことがあった。ゼロカラコンピだ。

 ゼロカラコンピとは、YouTuberでミュージシャンの月岡彦穂氏によって行われている、DTMerの定期演奏会。アマチュアのアーティストたちによる楽曲が、コンピレーションアルバムとなって、サブスク配信されるんだ。
 僕は初期の頃に『Black Velvet』で一度だけ参加したことがあったけれど、今回の「ラブソング」というお題を聞いたら『オッカムの剃刀』を出してみたくなって、いきおい二度目の参加をしてみたんだよね。出来上がっている曲を応募するだけのことだから、気が向いた途端に数分で済んだ。とりあえず、お気に入りの曲を持ち寄り、趣味を同じくする人たちと鑑賞し合えたら面白いと思っただけなんだ。そしたら、予想以上に取り上げていただけた。なんと、2〜4回参加の人の中から選考される「ビギナー賞」をもらったよ。

このアルバムに収録されています

ゼロカラコンピ「ラブソング2025」5
ゼロカラコンピ「ラブソング2025」5

 これには結構驚いたな。僕の芸術への向き合い方は、自己満足や自己陶酔に傾いていて、それを突き詰めることが美しいと思ってもいるから、人から評価されるということ自体が、どこか不思議だった。応募した瞬間から入れるDiscordサーバーを覗くと、総じてミックスなどの技術に造詣が深い人ばかり。言語的に芸術を構築するだけの僕には「よい音」だとかの体感的な心地よさはあまり判らないから、場違いなんじゃないかと思えていたんだ。
(この歌詞と楽曲に込めた想いの一覧を見ると雰囲気が判ってもらえる気がする。)

 「表現者としての質が高い」だとか言われるのは、嬉しくもあるけれど、昔よりも規模が大きくなったゼロカラコンピに参加してみたら、相当の気持ち悪さも覚えてしまったから、水が合わない僕の作品なんて、そのまま流されるだろうと確信していた。
 というのも、100人以上の参加者が感想を送り合う様に、少しだけ引いてしまったんだ。一応、鑑賞が面白いだろうと考えて参加したわけだから、僕もいくつかピックアップして感想を送ったよ。鑑賞も芸術的な素養が試される大切な言論だと思っているから、美術や文学などに発想を飛ばしたり、哲学的な思索を巡らせたり、僕らしい形で、多角的・多層的に作品を照らすのを重視して、まとまった文章にした。イメージとしては同時期にTwitterで、Mrs. GREEN APPLEの新曲『lulu.』について与えた、次の感想のような感じ。本人に送る都合上、もっと字数を割いて丁寧に記述したけどね。

 ところが、このスタイルは、他の参加者の方向性とは合わなかった。とにかく多く聴かれることを目指している人の方が目立っていたんだ。全曲に一言ずつ当たり障りない感想を送る人が数名いて、大量の感謝の言葉がその人の曲への感想と併せて返される。鑑賞によって価値や見え方が深化するでもなく、ただただ出席スタンプを捺すような流れ作業。こんなの芸術家のやることなんだろうかと、些か落胆した。
 ちょうどDiscordでのやり取りが活発だったのが『葬明』の制作中だったこともあって、より内向きのエネルギーが必要だと求め続けることになった気もする。商業に突き進むか、承認欲求を排するか、表現はどちらかしか許されないと思うんだ。使うのか磨くのか定かでない精神は、どうしても美しくない。スタンプラリーに使われた作品は誰のための芸術なのだろう。どうしてそこまでして他人の評価が欲しいのだろう。無理にすべてを判ろうとしないことこそ大切なんじゃないかな。光は絞らないとぼやけてしまう。

It’s best you know what you don’t
Aperture lets the light in

引用:Harry Styles / Aperture

 今回、ゼロカラコンピに参加して一番よかったのは、芸術家としての矜持を再認識できたことだね。もちろん、素人の曲をまとめてたくさん聴ける機会もあまりないから、面白い体験ではある。単に音楽が好きという人は向いていると思うけれど、芸術的表現の一環として音楽という舞台を利用する場合には、呆気に取られてしまうね。「人は皆、表現者である。」というスローガンを掲げている僕としては、歯痒い思いもした。現代社会に生きるみんなには、承認欲求という束縛から逃れて欲しいものだな。ただ「美しい」って思えたなら素晴らしい。布団の中で目を瞑り、じっとそんなことを考えていたよ。

今月の抱負

 さて、そろそろ今月の抱負を書こう。

 真剣に芸術に向き合えて一月は楽しかったけれど、悲しいことに二月はあまりそんな時間が取れなさそうなんだよね。すでに色々予定が入っていて物憂い。他人からは、ゆとりある暮らしじゃないかって思われるくらいでも、三日後に散髪の予約が入っているだけで、あれこれ悩んでしまうような僕にはハードスケジュールなんだ。
 今月は多くの人と話す機会が増えるから、芯まで内向的だと怠いな。別に僕は話すのが苦手ってわけじゃないんだ。昔は吃音などが酷くて恐れていたけれど、練習してかなり話せるようになって、むしろお喋りな奴になった気がする。ディスカッションとか、飲み会とかでも「楽しそうによく話しているね」って嫌味なのか判らないが、言われているよ。でも、外向きに自分を利用するのは疲れてしまう。多分、その場の会話を盛り上げる方法として、選択肢に「自分が面白いことを言う」しかないのが問題なんだろうな。「回し」みたいなことが一切できない。雑談を常に大喜利だと思っている節がある。カメラでも回してるのかってテンションの僕に、他者はたじろいでしまうよね。

そのくせ、本人は疲れているなんて、誰も得していない。

 授業やプレゼンみたいに、しっかり設計して話すのは作品性が出て納得できるんだけど、雑談は即興劇だから、何が美しいのかを考えると頭がフル回転するし、すぐに後悔もどんどん膨らんでいく。「本当はもっと深く考えたことを話す方が僕は面白いけれど、誰もそんな話は聞きたくないだろうから、このくらいの表現に留めるか…」とか考えまくって、話し終わると魂が抜ける感じがするんだよ。でも、声で話すのを練習して世界が広がったように、会話そのものも練習して上手くなれば、より世界は広がるんだろうって確信はある。
 思えば、中学生だとかの子どもと面談するときは、僕ばかりがベラベラ喋って圧をかけるなんてことはない。それは、その子ども自体を大切にしようとしているからだと考えた。大人に対しては「一緒にこの会話を面白くしたいんだよな!なぁ?そうだよな!?」って個人を軽視して、話自体の作品性を高める共作者だと思ってしまうんだ。もちろん、そんなことは誰も望んでいないから、僕だけ頭がおかしい奴になる。端的に言えば優しくない。純粋に優しい奴になりたいとは、あまり思えない性だけど、小説を書くにも人の感情の機微を理解し、没入できることは大切だし、ちゃんと他者の感覚に寄り添ってみたいとも思った。人と会う予定を面倒と思うだけにならないために、練習だと捉えられる今月の抱負を立てよう。

人との時間を大切にしよう

 一月の内省によって溜めたエネルギーを、二月はコミュニケーションに使ってみよう。というか、使うっていう発想がよくないのかもしれない。会話によって僕が相手からエネルギーを受け取れるようになろう。「会話の練習だ!」なんて考えるのは、人間を道具的に扱っていて、あまり褒められたことじゃないだろと謗るだろうか。でも僕は、結果的に優しくなれるなら悪くもないと思うんだ。悪くないどころか、優しくすることこそが善いことだと信じて優しい人よりも、構造を丁寧に解体して、身勝手な行いを極めたときに優しい行動を取れる方が、頑健だと感じる。究極の自由によって平和へ辿り着けるように、僕の哲学を深めていきたい。そのためには、そろそろ他者との関わり方を考察する局面に来たと見える。

 さぁ、さっさと布団から出なさい。


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