天気予報と情報格差
当ブログは、自閉スペクトラム症の当事者である僕が、いつも見ている世界をできるだけ詳細に言葉にすることで、皆さんに他者の価値観を鑑賞していただく試みです。
この記事は、Amebaブログのリメイクです。
177に電話をしたことってある?
えーと、なんだっけ?時報が聞けるんだっけ?
違う違う、時報は117で、177は天気予報だよ。(市外局番)+177 で、その地区の天気予報を聞くことなんかもできるんだよね。
でも多分、今でもよく使っているなんていう人はかなり少数派だろうね。実際に、利用者数もどんどん減少しているそうで、2025年3月末をもって、サービスを終了することが決定したんだ。
そりゃそうだよ。むしろまだやっていたことに驚き。天気なんてスマホでいつでも分かるのに、わざわざ電話をしてまで知りたいときなんてないもん。
そうだよね。僕も正直言って、天気予報が知りたいから177に電話しようなんて発想になったことが、生まれてから一回もないよ。
ただ、サービス終了にあたり、電子機器の使えない老人や視覚障害者のためにはあった方がいいサービスなのでは?なんて意見も目にしたんだ。でも、老人は毎日働いている若年層よりは天気を気にすることも少ない上に、使えないというのはただの怠慢だと思うし、現代の技術の恩恵で別に目が見えなくたってスマホは使える。
災害時や緊急時には無いと困るんじゃないかと言う人もいるかもしれない。だけどそれだって、ネット回線より電話回線の方が多少安定しているってくらいなもんで、機械を通さないと使えないのは変わらないわけだから、優位になる状況はかなり限られているね。(公衆電話も全然ないし)だから思いつく程度の懸念は杞憂にすぎないんじゃないかと直観的に思って、実際の利用者数を調べてみたんだ。
1988年頃には年間3億件以上あった利用が、現代になってどれくらい少なくなっているんだろうかと、2023年の利用件数を見てみると…
約556万件
え?……多くない?
もう1000件とか、1万件とかそれくらいのオーダーを予想していたから、確かに昔の98%近く減少しているとはいえ、かなり多いと感じてしまった。利用者が毎日かけているとしても1万人以上が使っているということだもんね。
クリハロくんにも生活の変化を嫌うところがあるけれど、昔からずっとあるものだから、天気予報を電話で知ることをルーティン化して毎日同じように聞き続けているって人もいるんじゃないかな。
そうだとしても、もっと簡単に知ることができるようになっているのに、少なくとも数万人は「スマホ等がうまく使えない状況」にあるんだよね。そう考えると情報格差は僕の予想以上に深刻であって、様々なもののデジタル化には多くの困難が立ちはだかっているんだと感じてしまったな。
僕らはいつも上位層
7月に新紙幣が登場したことは記憶に新しいし、僕はウキウキしながら下の記事も書いたくらい楽しみにしていたんだけど…
こんなことに税金をかけるなら、完全キャッシュレス化に移行していけばいいと言っている人も多くいる印象だった。僕としてはスマホがお金に介入するのが嫌で、かなり現金を使ってしまうタイプだから、思いもしなかったな。
けれど、この意見は177を数万人が使っているという事実からも、問題を抱えている意見だと感じられるよね。まあ、その前に災害の多い日本で完全キャッシュレス化というのはありえない気もするけれど…。
この記事でも言ったように、僕らは「何かの界隈」に居るのを感じられないことが多い。
政策だとかのルールを考えたり、リーダーシップをとって世界のあり方を変えようとする余裕のある人は、いつも大抵上位数パーセントの恵まれた状況にいる人たちであるし、僕ももちろん、パソコンやらスマホ・タブレットを何台も持って、自在に使いこなせているかは怪しいけれど、自由に調べたり、発信したりして、高等教育を受けながら研究したり、偉そうに教育を語ったりできる立場にいるわけだから、世間の“常識”を見誤ることがよくある気がする。
当たり前に使えるものだと「使えない人の感覚」が全くわからなくなるってこともあるよね。電話さえ使うことのできない路上生活者や、日本語が使えない人だとか、多様な他者が私たちのすぐそばにいるってことも覚えておきたいな。
とはいえ、物理的制約でできないというわけでもなく、スキルの向上によって便利に暮らせる道がありながら、それを教える努力もせず、慣習にかまけ続けるのは発展の阻害でしかないから、教育の機会として177のサービスを無くすことは、悪くないと思うんだ。お金はどんな状況でも使えないと困るけれど、天気予報ならどうしても必要になるときって、そこまではない気もするからね。
誰もを取り残すことなく、快適性を担保する社会のためには、もはやテクノロジーを使えないことは、原始時代の生活を強いているようなことであると捉えて、積極的に教えていくことの方が重要なんじゃないかと僕は考えているよ。だから、その上で必要なのは原始時代のやり方を残すことではなく、教育の機会の担保だと思うの。
常識は見誤ることがあるかもしれないが、義務教育で習ったことは常識と捉えてもいい気がする。僕らは教育によって平等になり、教育によって発展する。義務教育がなくなった大人の世界で蔓延っている情報格差がその証拠なのかもしれないね。
困難との向き合い方
しかし、天気予報についてあれこれ話してきたけれど、当の僕は実は天気予報を知りたいと思ったことがほとんどないんだよね。
壊滅的な災害級の気象なら対策を考えるけれど、普段の雨くらいなら常に折り畳み傘をカバンに入れておくだけで、日頃から天気を気にするというタスクがなくなる。それに、たまに雨に降られてみることさえ、僕にとっては情景があって素敵だなんて思えてしまう。それが旅行なんかのイベントであっても、中止さえ思い出になる気がしてならないんだ。そうして微細に感情が揺れるときにこそ、芸術的感性が湧いてくるなんてことも多いしね。
そこまで流れゆく時に寛容な心を持てるようになれたらいいよね。
恨みや悲しみの向こう側に意味を見出していきたいな。
大衆における天気予報の重要性が下がるのも、それなりにインフラが整備された社会に生きられて、様々なことに娯楽を見出せるようになったお陰だと思う。
177が終了するように、僕らはまた一つ時代が変わっていくのを目の当たりにしているけれど、そこに思いを馳せられる恵まれた環境に感謝しつつ、問題において本質的に重要なことはなんだろうかと偏見のない多角的な視点で考えていきたいね。
あなたは、テクノロジーの発展と情報格差についてどう考えているかな?または、天気予報との向き合い方や常識と平等性についてなど、この記事をきっかけに考えを巡らせてくれたら嬉しいよ。
天気の話って、盛り上がるんだよね…? それじゃあ、またね!










