樅木 霊『剪断』(3/7)
七時五十分。ソフトテニス部が朝練の片付けを始める。塗装の剥げたプラスチックの籠の中へと、反対のコートからボールを狙い打ちしていた。どうせ外れるから下級生は急ぎ足で取りに行く。何度も繰り返すそれを渡り廊下の窓から見ていた。しばらく目が離せないでいたのは、母さんが文句を言いながら毎週ドラマを観ているのと同じ気持ちかもしれないと思って、窓の桟に視線を移す。砂埃が天気予報の等圧線のような形で固まっていた。
両手でしっかりと理科の教科書とノートを抱え込む。ガタガタした小口を親指の腹でなぞった。詰襟のポケットには、シャーペンと消しゴム、赤ペンに蛍光マーカー。内ポケットにはスティック糊やハサミまで入っている。今すぐにでも一限を受けられる体制だ。僕は校舎に入ってくる他の生徒が現れる前に、この誰もいない渡り廊下に移る。戯れ合って騒ぐ声は少しずつ大きくなって、ぼやけた音像としてここまで届いた。向こう側の日常と僕との間には透明な膜が張られているみたいだった。
いつも通りの始業間際。担任とほぼ同時に教室に入った。ホームルームが終わるとカラスが群れるゴミ捨て場のようにロッカーは混雑する。とっくに支度が済んでいる僕は席に座り続けたまま一限を受けられる。そうすれば僕の持ち物に悪戯をされる隙は完全にない。夏休みが明ける前から、グラウンドで朝練の生徒に会うこともないように、毎日一時間余裕を持って登校するようになった。自衛のための対策を講じるのはシミュレーションゲームみたいで面白かった。
しかし、そんな僕を神出鬼没で幽霊のようだと喩える者もいる。霊は都合が悪いと姿が見えなくなるらしい。かと思ったら、人権を無視できるストレス発散の相手として、しっかりと視認される場合もある。卑猥な言葉で呼ばれるのとどちらの方がよいのか判らないが、頭の悪そうな声で何を言われても気にならなかった。気になるのは、恐喝、窃盗、暴行、器物損壊、など。「いじめっこ」なんて呼ばずに、ただの犯罪者だと思うようにした。
僕の中学校は部活動への加入が校則で強制されている。それでもどうしても部活動に入りたくないという人間を助けるようにあるのが読書部だった。放課後に図書室に行って適当な本を借りるというだけのことを、部活動だと言い張っている。また、少しでも立ち止まって考えられる者は、年齢が一つ二つ違うだけの人物を「先輩」だと奉ることについて、抵抗があるものだ。その点、読書部は部員の人数さえ誰も把握していないような場所だったため、いくらか気は楽だった。借りたところで読んだ試しはほとんどないが、自分のカードに捺印をするだけの簡単な作業は、ひとまず毎日欠かさず行うことにしていた。ただ、こんな部活動に入る時点で、誠意もやる気もない人が多いということは約束されている。「本を借りる」というたった一つの部活動のルールさえ反故にする者は多かった。必ず放課後に図書室へ来る一年生は、僕と青央くんだけだ。
「マジでごめん、こ、これ……返す。」
青央くんは、同じ教室から来たとは思えない速度で図書室に辿り着き、教室の前よりも空気の澄んだ静かな廊下で待っていた。千円札を二枚、僕に突き出している。僕と違って色素が薄く爽やかな旋毛を見せびらかすように頭を下げ、肘はピンと伸ばしていた。紙切れにしては強すぎる握力で、その変形はテーブルの隅に忘れ去られた割り箸の袋みたいだ。華奢な体つきでありながら筋肉質で、僕よりは頭一つ分くらい大きいはずなのに、その姿はとても弱々しく縮こまっていた。
「それじゃあ君が盗られたことになっちゃうじゃん。最近使っちゃってて、逆に二千円しか入ってなくてよかったわ。大した額じゃないし、それくらい気にしないよ。」
何も考えずに嘘が出るようになって久しいが、稀に見る瞬発力で自分でもやや引いた。
青央くんは昼休みに僕の財布から金を盗った。五時間目の体育のために着替えていた昼休みのことだ。僕は上下ちぐはぐな見てくれのまま、並木くんの舎弟に羽交い締めにされた。無闇に動いても三倍くらいの体重があるそいつには、まるで効果がなかった。男子だけの教室で少しずつ周りの視線が集まる。そそくさと着替えを済まそうとする者と、バラエティショーとして参加する者に二極化していく。
遠くの席にいた並木くんが「里見、バカヒラの財布から金抜くチャンスだぞ。」と腕を突き上げた。制服を入れておこうと出したスクールバッグには小学二年生から使っているマジックテープの財布が入っている。学校に金を持っていきたくはなかったが、筆記具がなくなれば購買で買うしかないし、真宙に何かあったときは祖父母の家に行くと決まっていたから、バス代を携帯するようにと言われていた。中身を差し出すのもこれが初めてではない。いきなり名指しをされた青央くんは怯んで女みたいな声を出す。羽交い締めが始まったときから近くにいたのに、止めるでも見て見ぬふりをするでもなく、ただじっと見つめていた様は、大縄跳びに入れない僕みたいだった。「出た。おっせーんだよなー。」とケラケラ笑っていた並木くんは、瞬間的に豹変し、音が出るように机を蹴る。
「さっさとしろよ、里見。」
空気が張り詰める。唇を噛み締めている青央くんと目が合う。囁くような声で「いいよ」と目配せをした。
青央くんは小学生のとき、並木くんと同じサッカーのクラブチームに入っていた。僕から見れば、小学校の放課後のグラウンドを貸し切るおかしな団体という程度にしか映らなかったが、地域では「名門」だなんて呼ばれるチームだと言う。その証拠に他の小学校からも多くのサッカー少年が集まっていたらしく、その内の一人が青央くんだった。並木くんは四十人を軽く超える人数のなかでも、レギュラーメンバーから外されたことがないようで、男子からに留まらないカリスマ的な人気があった。反対に青央くんは試合なんて出たこともなく、中学校ではそのクラブの延長線になっているサッカー部にすら入らなかった。教室で並木くんが小学校のクラブでのことを話題に上げるたび、青央くんは引き攣った表情を浮かべる。他にもサッカー部員は多くいるのに、わざわざ辞めた青央くんを巻き込んで話すのが並木くんらしかった。
「でも、それならせめて割り勘にして。俺にだけ罪悪感を背負わせないでよ。」
青央くんは千円札を一枚、デニム生地の自分の財布に戻してから、もう一枚を両手を広げて挟んだまま、お祈りのようなポーズで僕に差し出した。ナ行の滑舌が甘いせいか、いつも動きや言葉が幼く思える。内心では受け取れる理由を作ってもらえたことに安堵しているのを感じた。そんな自分が惨めで、できるだけ冷めた態度で一ヶ月分のお小遣いを受け取り、ゴミみたいにポケットに突っ込んだ。「仕方ないな」と悪態をつく僕に、嫌味一つなく礼を言っている青央くんの声は耳に痛かった。
吹奏楽部の練習の音は放課後の校舎をそれらしくする。僕は手提げに外履きを持ってはいるが、あえて青央くんを撒く理由もないから、図書室を出てからはいつも一緒に昇降口へ向かった。青央くんは早足に階段を下る僕の後ろから、沈黙を埋めるようにしきりに冗談を言っては自分で笑う。下り切ったところで、その声がぴたっと止んだ。昇降口にある冷水機から下品に水を飲んでいる、あのユニフォーム姿は並木くんたちだ。青央くんが僕の背負っている鞄の取っ手を引っ張って、行ってはいけないと合図をした。しかし、その合図の直後にひょうきんな取り巻きが、歓喜と冷笑の中間の声を出す。それに気が付いて並木くんもこちらを振り向いた。
「うわ、やべえやつらが現れた。」
「里見もなんで、バカヒラなんかといるんだよ。」
「ハズレすぎるコンビじゃん。」
矢継ぎ早に戯言で盛り上がる彼らに尻込む人間でありたくない。僕は構わず昇降口に行こうと一歩踏み出した。それは鞄を掴んでいた手を引っ張るような強さだった。青央くんは「別に、さっきたまたま会って……」とたじろぎながら、僕の力にも抗わない。そのとき、僕は舌打ちをした気がした。それは本当にしたのか、誰にしたのかも不明だが、並木くんを睨みつけることは確実にした。靴を履き替えようとしたとき、僕の胸ぐらを掴みにきたのが証拠だ。
「お前、なんだよその顔。キモい眼鏡のチビがイキがってんじゃねぇよ。」
至近距離にいられると自然と体が固まった。いつの間にか握っていた拳にじっとりと汗を感じる。見上げないと視線が合わないはずなのに、軽く持ち上げられているのか自ずと視界の中央に並木くんの企んだ顔が配された。眼鏡のフレームがその表情を強調するが、レンズの隔たりはテレビでも見ている感覚にさせてくれた。目を合わせないようにその枠の際を見ようとすると、細い弓形に屈折した青央くんがいた。醜くなった像は色が分裂するように滲んでいる。また大縄跳びに入れなさそうにしていた。いくら頭のなかに並木くんを貶す言葉が浮かぼうと、閉じ切った声帯には押し並べて阻まれてしまう。何もしない僕に愛想を尽かしたのか、「汚ねっ」とだけ小さく呟いてから、硬直した体をゴミのように放り投げた。
一瞬だけ空中に浮き上がり、バランスを取れるわけもなく倒れ込む。左耳を壁に強くぶつけた。ガチャと嫌な音がする。セルフレームの眼鏡の蔓が壁と顔の骨との圧力に耐えきれず千切れるように折れた音だった。咄嗟に目を瞑ってしまっても、眼鏡が右耳を支点にぐるりと半回転しながら、吹き飛ぶように僕の顔から滑落するのを感じた。再び瞼を開いたときには果てしない混沌が広がっていた。無彩色の下駄箱に制服の青央くんは馴染んでしまって見当たらなくなったが、カラフルなユニフォーム姿はかろうじて浮いて見えた。水色の塊が手を叩いて笑っている。裸眼になると明後日の方を向いてしまう僕の右眼を気持ち悪がっているのかもしれない。ぐちゃぐちゃな視界は、目を細めたくらいでは何も変わらない。見えないということは、それだけで人を著しく弱くさせた。左頬も痛んだが、それを感じられないほど必死に、どこにもピントが合わせられないまま、目の前の水色を逃さないようになんとか見つめていた。青央くんが驚きと恐怖とが混じった弱い悲鳴を上げる。眼鏡が壊れたことにそこにいる全員が気が付いて、並木くんたちは関わりたくなさそうな様子でさっさと外に出て行った。「お前が勝手に壊したんだからな」と吐き捨てる声は、いくらか焦りを感じられて、所詮はまだ子どもなんだなと可笑しみがあった。
彼らが扉の方へ行くや否や青央くんは僕に駆け寄って、大丈夫か大丈夫かと焦り気味に訊いた。いつの間にか早くなっていた呼吸が落ち着いていくのを感じる。この視界では目を開けているだけで脳が揺れてくる感じがするから、脅威がなくなれば自然と瞼を下ろしていた。コミカルな手振りで、「眼鏡がないと何も見えない。」と半笑いしてみる。青央くんは僕の手のひらを持って、その上に眼鏡をゆっくり乗せてくれた。左の蔓が真ん中あたりで完全に折れ、二つのパーツに分かれてしまっている。レンズにも少しヒビが入っているようだ。厚さのあまりフレームから飛び出ているプラスチックが僅かに欠けていることを手触りで知った。このフレームはレンズを交換しながら転校する前の四年生から使っていた。濃い縹色のセルフレームは子ども用でも、ハイセンスな大人向けに感じられてお気に入りだったが、三年以上の使用でガタが来ていたのは確かだ。どうにか自己弁護するためにそう考えた。
「それ、もう掛けられないよね。」
自分が悪いでもないのに僕に合わせて小さく屈み、申し訳なさそうに尋ねる青央くんに、首を縦に振った。僕は母さんにする言い訳を考えるので必死だった。
「天音くんって、その……かなり目が悪いんだよね。」
こんなに度の強い眼鏡を掛けながら、先日の席替えでも前の方を希望して、散々馬鹿にされていたというのに、躊躇いがちに訊いてくれるのには気遣いを感じた。もう一度、一回だけ頷く。動揺に飲まれて、目を開いたら泣いてしまいそうな気がするから、塞き止めるように強く瞑った。
「そしたら、眼鏡しないで歩いて帰るのは厳しいのかな。」
ずっと自分のなかでは既に検討が済んでいることを一つずつ訊かれるのは、隠している切り傷を服の上から抉られているみたいだった。惰性でした三回目の点頭をきっかけに青央くんは突然立ち上がる。
「俺、保健室前の公衆電話で、天音くんのお母さん呼ぶよ。番号教えて。」
そんな提案をされるとは思わなかった。戸惑うと同時に青央くんの口から今あったことを誰かに伝えるのはやめてほしいという直観が働く。目頭の熱いものが引いていく感覚があった。眼鏡を慎重に開いて、手で押さえながら掛けてみる。ようやくピントが合った。青央くんは思ったよりも遥かに逼迫し、泣きそうな顔をしていた。それに焦燥を覚えて、空回りそうなほどに明るい声で言った。
「母親は仕事でいないし、レンズはそれなりに平気だから普通に帰るよ。ただ、もしよかったら、僕の鞄に入ってるセロテープで、眼鏡の応急処置をしてくれない?」
そんなことでいいならと、喜んでやってくれたことはありがたい。眼鏡をしないでしか行えないその動作は僕にはできそうになかった。古い包帯みたいに蔓に巻かれたセロテープ。一応掛けるに耐える状態にはなった。度の強い眼鏡はレンズが瞳孔の中心から少しずれるだけで見える像が大きく歪んでしまう。不恰好に曲がった眼鏡は、しばらく掛けているだけで酔っ払ってくる気がした。そんな眼鏡を掛けた僕もまた不恰好だったはずだが、青央くんは極めて神妙な顔つきで「お家まで送っていくよ。」だなんて言う。小学校も違った青央くんは家の方向も正反対だ。金を盗ったことなんて、もうどうだってよいのに、一体いつまで善意を振る舞うのだろう。僕は「大丈夫」とだけ言って、昇降口を先に出た。
国道を避けて一車線の路地を歩く。団地に併設された形ばかりの公園を横切るのが近道だ。抜けると住宅が規則正しく並ぶ。交差点にある古ぼけた木造の駄菓子屋は、小学生の待ち合わせによく使われた。携帯電話を持っているのが当たり前ではないものの、その様子は郷愁を絵に描いたようだった。二割も埋まっていない虚しく広い駐車場。駐車線が薄くなっているのをよいことに、量産車がばらばらと不規則に停められている。おそらく隣の家の住民によって、敷地内の片隅に植木鉢やらが置かれていた。近隣住民の老人たちは、それを注意するどころかその花の可憐さを愛でているらしい。陽も傾きつつある放課後、植木鉢の傍らには野良猫がいた。濃い茶トラの雑種猫。汚い地面を気にしないで毎日そこに横たわっている。汚いそいつを気にしないで餌を与える人がいるからだ。ランドセルを道端に置いたまま、楽しそうに撫でていたクラスメイトを思い出した。いくつもの名前で呼ばれていたその猫は、どの名前にも興味はなさそうで、涼しそうに餌だけを掠め取った。誰もいない駐車場で呑気に寝ている猫を見るのは、接客業の休憩室を覗いているようで、いくらか気が咎めた。
歩行する小さな振動が蓄積したのか、視界の振れ幅が大きくなる。セロテープでの締め付けが緩くなっていた。結局、手で押さえている方が頭痛は弱まった。望遠鏡みたいにレンズを翳して歩くのは、とりわけ情けなく思える。信号待ち、数秒だけ目を閉じて、大きく息を吐き切った。上目遣いにレンズを通さないで見ると、もちろん赤信号の色は空に溶けるように広がっていく。けれど、レンズの上部に歪んで映る棒立ちの人間の記号もどこか偽物らしく思えた。殴られても力で敵わないことに、悔しさを覚えたことはない。罵られる言葉も知的レベルが知れるようで滑稽だった。それでも、こんな壊れてしまった眼鏡に縋らないといけないことは、ひたすらに面白くなかった。青信号に変わるまで、目の前の車道には一台も車が通らなかった。
木製を模した自動ドアが開く。いつものように部屋番号を入力しようとしたとき、眼鏡から手を外して、また視界が揺れた。逡巡する。鍵を取り出すことにした。真宙が選んだドラえもんのキーホルダーはスクールバッグのポケットにある。エレベーターの中では鏡をずっと見ていた。壊れた眼鏡を初めて観察できる。斜めに覗き込むと何重にも重なって見える白い渦が気色悪いが、今は気にしないでおいた。左のレンズに入ったヒビはそれなりに目立っているし、頬にできた擦り傷も絆創膏なんかを貼った方がよさそうだった。何よりセロテープは、手の汗が染み込んだのか黄ばんでいて汚らしい。帰り道に挨拶をしたお婆さんの目が悪いことを願った。
吐き気を我慢しようと、深呼吸をしてから玄関の鍵を開ける。靴を脱いでスロープの邪魔にならないようにと下駄箱に片付けた。そのとき、母さんはリビングからこちらまで来て「あら、おかえり」とインターフォンを鳴らさなかったことに驚きつつ、後ろから言った。疲れを感じる息の多い声を聞いて、少し長く瞬きをする。「ただいま。ねぇねぇ、見てよこれ。」玄関で座ったまま、巻かれたセロテープを指差して、戯けて誇張した困り顔を作った。
「コンビニから曲がった路地のとこで車が来てさ、別に避けなくても十分に通れたのに、無理に避けようとしたら、溝の繋ぎ目に足が引っかかっちゃって、壁に激突したんだよ。ゴチーンって。運動神経悪いよねぇ。そしたら、眼鏡がバキって折れちゃったの。本当にごめんなさい。」
さっきまで考えていた台詞を早口で喋る僕に、母さんは感嘆詞だけを口にした。よく見ようとしてきた母さんに眼鏡を渡して、目を閉じたまま続ける。
「全然見えないから大変だったよ。眼鏡が落ちちゃって手探りで探してさ、そういうときに限って誰もいないの。見つけてもそのままじゃ掛けられなくて、セロテープを巻こうとしても、見えないでやるのは、すんごい難しかった。誰もいなくて困ったけど、道路で正座して工作してるのなんて、誰にも見られなくてよかったかも。」
言葉が途切れないように神経を集中させた。視界を閉ざしている分、ドジな僕を想像しやすい。ジェスチャーまでつけると諧謔味が増した。無理に笑おうとするたびに心は冷やされていく。「怪我もしてるじゃない。大変だったね。」と言われて、やっと話すのをやめられた。僕の間抜けさを笑って、それに軽く毒づかれるのが気持ちよかった。金のことで責められるかもしれないと思っていたからだ。
「でも、今日は眼鏡屋さん行けないよ。明日でいい?」
父さんが帰ってきてからでは遅いし、真宙を連れて行くのも一苦労である。明日は土曜日だから、父さんが真宙を看ておいてくれるはずだ。慎重に返された眼鏡を掛けながら、念のために「一緒に行ってくれる?」と確認すると「え、もちろん」と当然のことのように返された。久しぶりに息を吸った気がした。
手を洗ってから部屋に行く前に、リビングに面した和室のベッドにいる真宙にはっきりとした声で「ただいま」と声を掛ける。糸で引っ張られているように硬直している口から懸命に出された声は「天音、おかえり」だろう。僕は難なく真宙の言葉を理解できることが自慢だった。隣に膝をついて微笑みかけてから、喋ろうとして首まで垂れた涎を指で拭ってやると、照れたように並びの悪い歯を見せる。今日は学校に行けたかと、答えの知っていることを訊き、ゆっくり頷くのを見て満足した。
ワイシャツを脱ぐと、すぐにシャワーを浴びるのが日課だ。汚れた体で部屋着を着たくないのだ。着替えを用意しつつ、風呂用の眼鏡を出した。頑丈だけが取り柄でかなり野暮ったい。錆びないように金属がほとんど使われていないフレームにした。五年生の秋、修学旅行に備えて買ってもらったものだ。旅行では馬鹿にされるポイントを増やしただけだったが、家ではそれまで怖かった入浴も見えるようになって燥いだ記憶がある。真宙の入浴介助もそれを機に僕がやると言った。当時は危なっかしかったが、家族としての役割が増えて喜んだ。しかし、この眼鏡は入浴にしか使わないからと一度もレンズを変えていない。自分を映す洗面所の鏡にも、この肌色について、無造作な短髪で眼鏡を掛けているという情報以外は秘匿された。それでも、持っているもののなかでは最も度が強かったから、シャワーを終えても、仕方なしにしばらく常用することにした。
ドライヤーもせずにパンツだけ履いて、浴槽に浅くお湯を張る。夕飯の支度をする母さんに痩せた体を見せるのも気にせず、真宙のところへ向かった。発泡スチロールみたいに軽い体躯は、僕でもなんとか車椅子に乗せられる。その前におむつを確認した。しっかりと臭いがする。最近は尿瓶でするように練習していたが、ついさっき漏らしてしまったようだ。表情はよく見えなかったが、残念そうに「ごめん」と言っているように感じた。できるだけ明るく、まだ出そうか尋ねる。力の入っていない柔らかな腕を掴んで尿瓶を持たせ、その中に性器を入れた。細すぎる腕では頼りなくて僕も支えるが、まじまじと見るのは可哀想で、顔は背けておいた。今日は数分待っても出なかった。諦めて風呂まで運ぼうと、シリコンの風船のような器具を口につけ、手で規則正しく押した。自分も同じリズムで呼吸をする。体はとっくに冷えていた。

