樅木 霊『剪断』(7/7)
まだ誰もいない研ぎ澄まされた教室に満遍なく陽の光が広がる。クリーム色のカーテンの周りに細かな埃が漂っているのが気になった。大きく湾曲したプラスチックは世界をこぢんまりと歪ませて、僕にチューニングを合わせた知覚を与える。レンズがきらりと反射して、号令を掛けたように精密に結ばれる焦点は、これまでよりも繊細で鋭い。痛みを伴って越えられない隔たりを実感させるのに役立った。
昨日のこと、中谷さんはギプス姿の僕に憐憫の眼差しを向けながら、卸したての眼鏡を持ってきた。小さな楕円型の深緑色をしたメタルフレーム。僕が選んだときにはクールで華やかだったそれに、収まり切らない厚いレンズが嵌められていた。ギラギラと渦を光らせ、医療器具の装いを全面に出す。折り畳まれた細い蔓は、レンズ越しに見ると歪んでいて一段と頼りない。僕が世界を見るのには、こんなにも著しい屈折を必要とするのだと身に沁みて、その頼りなさにえたいの知れない不安を覚えた。中谷さんはギプスに触れないように、殊更丁重に眼鏡を掛けてくれる。瞳孔の中心や耳の当たる位置を入念に調べて、何度か掛け外しを繰り返した。混沌と秩序を行ったり来たり。真剣な表情にピントが合うたび、あまりの鮮明さに眼球が刺されるようだった。
きりりと主張する輪郭。教室の中央で机を片付けて不自然に並べられた椅子に腰掛ける。端から埋めるべきだろうが、右から二番目が僕の椅子であったから、それに座った。座面の傷の付き方で判る。後ろから入ってきた父さんは、やや腰を屈めていて客人らしくしていた。親子二人でいる教室。表と裏をひっくり返したシャツのように不均衡が生じる。どんなことを話そうかと打ち合わせもできたはずだが、面と向かって赤裸々に晒すことは気が引けた。父さんが今日初めて知る内容があったところで構わないと思えるだけの覚悟は、痛みに堪えるベッドの中で存分にしたはずだ。
休日も部活動の音で校庭なんかは騒がしい。それに引き換え、教室のある校舎は穏やかだった。野球部が出す大声や、金管楽器の音の端くれだけが弱々しく届くのが余計に弛んだ空気を演出する。父さんと一緒に職員玄関から迎えられるのは落ち着かなかったが、資料を取りに行くと言った担任を置いて、先んじて入った教室は清々しかった。よくなった視力のおかげか、掃除されていることに気が付く。
バタバタと音を立てて入って来た担任が、申し訳なさそうな顔をして向かいに着席した。畏まった社会人のふりをして、父さんを労ってから、僕の怪我にも配慮した物言いをする。絶えず疼くギプスの中へと意識が向かないように、一切をはぐらかしておいた。集合時間に先立ってやって来たのが原因かもしれないが、並木家は未だ到着していない。もっと遅れて来れば悪印象をほしいままにするのに、担任と話す暇もなく彼らは姿を見せた。金曜に見た母親に加えて、スーツ姿の父親もいる。マリンスポーツでもしているのだろうと想像に易しい焼けた肌と整髪料できつく固められた髪型は、並木くんの父親らしいと合点がいった。顔もよく似ている。そんな成功者の風貌の男は、空いた席に着くより前に「この度は、申し訳ありません。」と二回りは図体の小さい僕に目を合わせながら言って、深々と頭を下げた。父さんの方にも、再び同じようにする。腰を低くして宥める父さんに比べて、僕は何も言えないで硬直していた。後追いで並木くんも詫びようとしているのが見えて、それには反射的にそっぽを向く。病院の外で謝罪の形を見せたときよりもずっと弱々しい。僕が骨の折れた痛みに耐えていたこの週末、並木くんはどんな叱責を受けたのだろう。それが生半可ではなかったろうと確信できるくらいには、いつもの並木くんと懸け離れた表情だった。とりあえず座るようにと促した担任が、些か偉そうに間を取り持つ。
「学級内で聞き取りをしたところ、今回の怪我の原因は、数人のクラスメイトによる高平くんへの常習的な嫌がらせにあると考えるのが妥当だと結論付けました。教員一同、または担任として、このような事態に至る前に、対処や予防をできなっかった監督不行き届きを、猛省しております。」
父さんから視線を逸らさないまま、何かを読み上げているみたいに言い切る様は、よそよそしかった。もしくは、機械音声のそれを彷彿とさせる。真面目なことだけを言う父さんの横顔を見てから、僕は息を吐き切って俯いてしまった。あの日の踊り場で、僕から殴ろうとしたことや、勝手に足を滑らせたことは事実だ。しかし、そんなことは誰も気にしていないようだった。事故であろうが、事件であろうが、悪者は並木くんやその取り巻きであるとされた。大切なのは日常の学校生活が、僕にどんな心理的ダメージを与えたかということ。その話になってしまうと、僕には反駁する材料がなかった。無駄に置かれた何脚かの椅子。そこに母さんが座ることもできたろうと考える。威勢よく相手方に謝罪する父と、隣で背中に手を回している母に挟まれた並木くんをレンズの向こうに捉えた。慣れない強い屈折に目が眩んでしまう。やはり下を向いたままでいることにした。
静かに怒り、静かに責任を追及する父さんには気迫がある。温度の高い炎が青く見えるように、声を荒らげなくても高いエネルギーを持っていた。その咎め方が美しくあればあるほど、血液が暴れ、口内が苦くなっていくような錯覚をする。担任からこれまでのいじめをあれこれ紹介され、本当のことかと確かめられた。そのなかで眼鏡を壊したのも並木くんだったのかと問われ、面倒くさくなって肯定した。並木くんの家族は一つ一つに水飲み鳥の要領で頭を下げ、いちいち小さくなっている息子を叱る。金でどうにかなる問題でもないけれど、弁償はさせてもらうとすぐに表明した。僕はもちろん苦痛であった。何のために今日ここにやって来たのか、今になるとはっきりしない。
しばらく話を続けて、並木くんが自分の言葉で謝罪をしようという流れになった。集まった視線に溺れそうになって、なんとか言葉を繋ごうとしているのが、果てしない罪悪感への救済に思えてならない。我慢ならずに、遮るように「別に大丈夫です。」とだけ漏らす。すると並木くんは動揺の表情を見せ、充血した瞳にみるみる涙を溜めた。誰にも縛られないと言わんばかりに、馬鹿げたことで笑い、人を貶めてそれも笑い、女子に応援されて笑って返す。そんな並木くんが、きっともうすぐ泣く。感情を動かさないようにそれを見つめていたが、密かに口角が上がった。
「本当にごめんなさい。」
最後はそんな単純な言葉だった。高潔な悪者でいられなくなった並木くんが気の毒だ。どうしてかそんな感想を抱く。「いじめられっ子」として見世物にされた自分にも同じような声掛けがしたい。謝れたことを褒めるように、幼児みたいに泣いている並木くんの背中を父親が優しく撫でていた。言葉では同調して僕らに誠意を見せ、息子を叱るのも欠かさないが、その優しい手つきだけは違った。
十六時を過ぎて教室を離れても、お辞儀のラリーは続いた。そのせいで、追い出されるように車へと向かう。父さんと二人きりになる。僕は二人で何かを話すのが耐え難く、靴を履き替えるところだったが、せっかちに言った。
「金曜日の放課後に部活があって、ポップを提出しなきゃいけなかったんだよね。せっかく作ったのに提出できなくて……それ、出してから帰りたい。あと、読書部の友だちも図書室にいると思うから、心配かけちゃったと思うし、ちょっとみんなと話しながら帰りたくてさ。怪我は大丈夫だから、先に帰っておいてくれないかな。」
まだまだ嘘が滑らかに出てくるようで安心する。父さんがいくつかの代替案を出したところで僕は頑なに一緒に帰るのを拒んだから、心配そうな顔を見せながらも一旦折れてくれた。腕や胸の中の痺れを気にしないで、微笑みを浮かべ手を振った。
──496。三つ目の完全数に守られたロッカーを開ける。堆く積まれた書物の上に檸檬を乗せたイラスト。その形にハサミで切り取ったのがこだわりだ。一週間ぶりに見るとしっかり目を引くポップに仕上がっていると思えた。南京錠の開閉に少し右手を使ったことで、また腕がじんと痛む。好きなだけ顔を歪ませて、薄暗い廊下を緩やかに歩いた。
図書室の入り口に束ねられている数枚のポップを見つけ、その一番上に僕のを重ねる。他者のそれらを圧えつけているみたいだ。この檸檬は爆発なんかせず、明日にはあっさり見つかる運命である。そんな妄想をしていると、図書室の扉がそろりと開いた。青央くんだった。
「わあ、天音くん、やっぱり来てくれた。」
興奮の調子に比べて声は掠れ気味で、何時間も待っていたんだろうと感じられた。僕の姿を見るなり、三角巾で吊られた腕を心配して大袈裟な泣き顔を作られる。青央くんは図書室から空気の澄んだ廊下へと出て、しばらく話そうと促すように、端の方へ向かった。「眼鏡、新しいのできたんだね。変わった色でかっこいい。」そんなことをお世辞らしくなく言えるのは素直に羨ましい。そういえば新しい眼鏡について言及されたのは、これが初めてだったと思い出し、青央くんの不用に整った顔の詳細を見つめた。どうして学校に居るのか尋ねると、僕に会えそうだと思ったからだと言う。当然そんな返答は奇怪であるのに、随分と落ち着いているせいで、いつもの臆病な風体を感じなかった。その不審は焦燥感を誘発する。
「天音くんが大怪我したって聞いて、俺、先生にいじめのこと話したんだ。どうなるかなんてわからないのに、夢中でそうしてた。」
俯く青央くんを見守って、最後まで聞こうと口を挟まないで相槌だけする。
「そしたら、クラス全体で話し合いみたいになったんだよ。今日、並木くんと話すことになっちゃったのも俺のせい……。天音くんからしたら、嫌な気持ちもあるんじゃないかって気になってて、直接話したいとずっと思ってたんだ。」
昨日も一昨日も、僕が出しそびれたポップを提出しに現れるかもしれないと、図書室に通っていたと言う。骨が折れているのにたった一枚のポップを提出しに来るのではないかと予想されるほどに、生真面目な人間だと映っているのか。日々の生活のあり様が思いやられる。それにしても、担任からいじめの有無に関する質問をされたときから、発覚している事件の偏りに青央くんの存在を察していたから、そこまで驚かなくて申し訳なかった。青央くんの健気で誠実な態度は、僕との熱量の差をありありと感じさせる。優しい光に照らされるほど、僕の影は濃く大きくなった。
焦燥感の正体は、目の前から次々と悪者が消えてしまうという恐れなのかもしれない。無気力を装って若さは幼さだと嘲笑い、彼らなんかとは違うと言い聞かせ続けた僕だからこそ、その旅立ちが面白くないのだ。あるいは、自分だけが腰抜けとして変われないままだと責め立てられているような鬱屈かもしれない。反対に、青央くんの表情には憂慮の奥から清々しさが浮かび上がっている。傾いてきた陽光を眼鏡のレンズが安っぽく照り返し、残酷なほどにその顔を華やかにした。瞬きを三回ほどする。
「今までごめん。言われるままにお財布からお金も盗ったし、嫌だったのに勇気が出なかったんだ。天音くんの方がもっと辛いのに。」
それに対して冗談めかして取り繕っても、青央くんは神妙な顔のまま空気を重たくするのを好むから、却って虚しい。きっと今の僕らは友だちとして心の距離を縮めるイベントの最中なんだろう。そんな俯瞰な描写が余計にも内心でされた。人が近寄って来るほどに、僕を取り囲む壁の存在を実感する。他人がそれに触れれば最後。非人間的だと必ず落胆されるはずだ。例の焦りは苛立ちに変わる。
「そんなの気にしてないよ。この怪我も、タイマンだったから反撃してやろうと思ったのにさ、運動音痴のせいで持ってた鞄を制御できないまま、勝手に階段へ落ちただけなんだよ。」
早口で言おうとしても息が続かなくて、舌が空回りしていく。
「さっき、並木のやつも、泣きながら謝っててね、ちょっと、笑っちゃった。自業自得で、骨折してるやつの、せいで、いっぱい怒られちゃって、可哀想だね。」
感傷が表出しそうで、西日に顔を隠そうと後退りする。青央くんの訴えるような視線が痛い。その目が一番嫌いだ。それ以上話したくなくて、親が車で待っていると言って帰ろうとした。回れ右をして歩き出す。すぐに後ろから追いかけて来て、「待ってよ。」と右肩に手を掛けられた。腕に電撃が走って唸り声が出る。それを合図に青央くんも咄嗟に謝って、やや沈黙した。少しだけ息を整えている間、「大丈夫?本当にごめん。」と弱々しい声がする。だらしなく温もる顔を最後にもう一度だけ見つめた。
「大丈夫だから。もう気にしないで。」
国道を避けて一車線の路地を歩く。団地に併設された形ばかりの公園を横切って、規則正しく並んだ住宅の間を抜けていく。古ぼけた木造の駄菓子屋の薄い窓は橙色に染まっていた。歪みが増えたレンズは僕に景色をまざまざと見せる。建売住宅のガレージから改造されたバイクが歩道に飛び出て、漏れた何かのオイルはアスファルトの一部を虹色にしていた。そんな汚らしい世界を突きつけられる。
量産車が不規則に停められた広い駐車場。植木鉢の傍らに、いつもの猫がいた。確か眼鏡が壊れた日に、セロテープが緩んだのを気にしたのがこの辺りだったと思い出す。同じように、一目散に歩いたことで、右腕の痛みが大きくなっていると気になった。猫の顔を見つめるとすぐに目が合う。吸い込まれるように何歩か距離を詰める。それでも猫は逃げるどころか、気怠そうに立ち上がり歩み寄って来た。誰もいない静かな駐車場の真ん中で、小さくなってできるだけ微笑む。恐る恐る頭を撫でてみた。喉をゴロゴロ鳴らしている。複雑に心に絡み付いていたものが、徐々に解けていくように思えた。僕にとっての「逆説的なほんとう」がこれだったならよい。それにしても、この猫は人間に慣れ過ぎているんだろう。こんな不審な姿の僕にまで好意を向けるのは、いけ好かなかった。
並木くんは改心したのかもしれない。少なくとも以前と同様に嫌がらせをし続けることはないと思われる。青央くんは勇敢になったのかもしれない。整った文字を書くことなんかより大切な何かを見つけたようだ。そんな喜ばしいことを、僕は忌まわしく思えた。野良猫を撫でた手で目を触わるのは憚れて、溢れてくる涙をそのままにした。真宙は明日、退院する。今の僕は風呂に入れてやることもできない。加えて、僕のことでまで両親に気を病ませている。わからない。本当はそんなことに関心がない気もする。隠れたいのか、目立ちたいのか。僕という存在自体、矛盾も甚だしい。
猫はギプスから出ている右手の指を舐めた。手の甲は痺れているが、どうもくすぐったい。鼻を滑った眼鏡を戻そうとしたとき、人差し指が下瞼の縁に当たったことで清潔を諦め、涙をぞんざいに拭った。撫でながら茶トラの猫の純真な瞳をじっと見る。右腕の痛みから邪悪な思い付きが生まれた。
一瞬の動きで固いギプスと制服の間に猫を捕え、右の前脚を左手で掴んだ。急激に動かした右腕は血が熱せられたように痛い。あれほど大人しかった猫も、鬼気迫る圧迫に抵抗して猛虎のように暴れた。とはいえ僕にも、そのちっぽけな体を押さえ付けるだけの力はあった。速度と強度を増す鼓動に急かされて、短い毛の奥に確かにある細い骨へと視野が狭まっていく。指先に思い切り力を込めた。引っ掻かれようが、痛みが増幅しようが構わない。
そうして、剪断が起きた。びいどろの瞳に反射する夕陽の燃え殻は、単純な赤として僕の眼にもそのまま映った。

