剪断(6)

樅木 霊『剪断』(6/7)



 上腕骨骨幹部骨折。医者から聞いても頭の中で漢字に変換できなかった。けれど、骨の真ん中が横に切れたように折れているレントゲン写真は、状態を理解するための専門知識を要しなかった。


 確か、内田先生に支えられながら、自分で歩いて保健室の椅子まで行ったと思う。落ちた場所が保健室の目の前だったからなんとか辿り着いたが、もう少し遠かったらその場に座り込んでいたかもしれない。保健室の先生は、内田先生よりは落ち着いていて、若さの割に頼もしかった。涙を浮かべて悶え続けている僕に何があったのか訊くが、声が上擦って上手く答えられなかった。子どもっぽいのは癪だったが、そのときだけは背の低い僕を小学生扱いでもすればよいと思った。左手で押さえていても、右腕が丸ごと取れてしまうんじゃないかと感じる。力こぶのできる場所で腕の中身が不自然に動く。ジャージの上からでもそれは判った。応急処置として添え木をして大袈裟に包帯で固め、右腕がびくともしないようにされる。振動が伝わるたびに女々しい声を上げ、血の気が引く。かなり大きな怪我をしてしまったと、そのとき初めて理解した。
 整形外科は学校に面した道の裏にある。内田先生は逸早く自分の車で送ると言った。救急車を呼ぶよりもその方が早かった。先生の車を待つ間、養護の先生はひっきりなしに電話をしていた。病院や僕の保護者にだと言う。家には誰もいないから、名簿には記載のない父さんの携帯電話を記憶からなんとか引っ張り出して教えた。繋がらなかった。遠くで電話をしている先生を見ていると、誰も支えてくれる人がいないのが不安になる。持っておくように言われた氷嚢は、左手には異常に冷たい。担任の先生が息切れをしながらやって来たとき、保健室のすぐそばに車が付けられた。ネクタイを苦しそうにして動揺している担任を気にも止めないで、僕は後部座席に乗せられた。我が家の車よりも数段階は高級そうだ。怪我をして汚らしい僕が乗るのは忍びなく思われた。

 腕の痛みでそれ以外の感情が吹き飛んでしまっていたが、内田先生と二人きりの車中はいくらか緊張する。すぐ着くから大丈夫だとしきりに繰り返す様子は、人間味が伝わってくる気がした。車窓を見ると先週母さんと洋食屋に行ったのを思い出した。そういえば、今日は眼鏡は壊れなかった。頭を打たなかったのはよかったと言われたが、もうちょっと運動神経がよければ受け身も取れるものなんじゃないだろうか。眼鏡の蔓が折れたり、腕が折れたり、最近は忙しい。病院に着くと内田先生は一挙手一投足をすべて介助しようとしてくれた。でも、足の悪い先生に凭れるように歩くのは、気が乗らないものだ。お爺さんが一人、長椅子に座っている。僕はその三つ隣、入り口からすぐの椅子に座った。消毒液の匂いがして、異様に緊張してきた。学校にいたときより腕に血が溜まっていくような感覚がある。明確に骨の折れている箇所がわかるような気がした。受付で一通り話してから隣に座った先生に「もう少しだ。がんばろう。」と背中を弱い力で撫でられる。

 半分泣きながらレントゲンを撮って、さっきの席に戻ると、保健室の先生も来ていた。別に反対側に座れば済むのに、僕のために自分の座っていた椅子を空けて、ここに座れと促される。次は麻酔を使ってギプスで固定するらしい。かなり綺麗に折れていたから、手術は必要ないと言われた。それを幸福なことであるように説明され、極めて違和感があった。僕にとっては今から行うことだけで、災難には満足できる。準備に少し時間が掛かると言うので、先生たちに僕は震え上がったような声を出してみた。そうした方が可愛げがある気がしたからだ。静かな待合室に、しばらく沈黙が続く。それは今、誰も慮る必要はなかったが、内田先生は重苦しく口を開いた。

あきらさんに蹴られたのかい?」

 スクールバッグに並木くんの足跡がくっきり付いていた。階段を落ちてから並木くんの声はちっとも聞かなかったが、内田先生はそれを退けて僕のところまで来たんだろう。そう思うのも真っ当だった。

「僕が先に殴りかかったんです。並木くんはそれを振り払っただけで……。」

 状況を詳述することができない。久しぶりに出した言葉は弱々しかった。痛みのせいだと思うことにした。「天音さんがそんなことをするようには見えないけどな。」と独り言のように言ったのには、聞こえないふりをした。僕は目を合わせなかったけれど、内田先生は僕の方を向いて話している。一つ一つ慎重に言葉を探しているみたいだった。

「悪者になってみるのも必要だよ。天音さんは、お家でも弟さんのことで頑張っているんだろうし、勉強も頑張っている。作文が選ばれたことも聞いたよ。クラスメイトを僕らに悪く言うくらいのことは、しても罰は当たらないんじゃないかな。」

 眼鏡の端の方で内田先生を捉えてみる。悔しいほどに優しい笑顔をしていた。

「もし、本当に君が先に殴ったとしてもね、君だけがこんなに痛い思いをしたんだ。教師には、あいつが一方的に殴って来たんだって言うくらいでもいいんだよ。嘘は自分のために使いなさい。」

 こういうときに教師らしくない発言をするのはイメージに合う。ただ、その声を校舎でない場所で聞くのはミスマッチだった。僕が話すのも例外ではない。学校での自分の塑像の表面が乾き切って、はらりと剥がれ落ちていくような気がした。腕に激しい疼痛を感じているのに、なぜかそこまで気にならない。蜃気楼を見ているみたいだった。

「自分のためです。」

 一言だけ呟くと、看護師さんがやって来た。ギプスが怖いのは本当だったのに、またピントが合わなくなった。僕の心が何を見たいのか理解できない。
 処置室の硬くて狭いベッドに寝かされる。腫れ上がって内出血で変色している自分の腕を見るのは気分が悪かった。肩に刺された麻酔で右腕全体の感覚が消失する。昔に歯医者で打たれたときよりもずっと広く強く効いた。見ていると怖いが、痛みがなくなってむしろ楽になった。さっきまで触るのも痛かったのに、医者は腕を掴んで動かしているみたいだ。骨が動くような感覚だけがあって、自分のものではないみたいだ。他人事の痛みを視野の外側になおざりにした。
 ギプスを付けるのは時間が掛かった。手首から肩付近まで、すべてが硬いギプスに覆われていく。緊張感にも慣れて、ずっと横になっていると眠たくなった。そんな感覚も懐かしい気がした。

 全身の半分くらいが白くなって、肩を落として処置室を出ると、母さんがいた。後ろで髪を一つに結んで、メイクもしていない。血色が悪く実に疲れているように見えた。「ひどい。大丈夫?」と駆け寄る母さんに「来てよかったの?真宙は?」と慌てて訊く。「おばあちゃんに頼めたから、そんなこといいの。」と中腰になって腕を触らないように腰あたりに手を回された。僕をじっと見つめている。母さんも決して背は高くないのに、僕の方が明白に小さい。ボロボロの体が恥ずかしかった。

「本当にごめんね。」

 母さんが無理に笑おうとする表情と裏腹な涙を流していた。

 処方された痛み止めの薬と会計を待つ間に、母さんは先生たちに頭を下げて見送った。僕も真似して会釈をする。内田先生は深く一礼してから、僕に向かって握り拳で「がんばれ」とサインを送った。

 壁に掛けられた時計が示す時刻は目を細めても見えないが、窓に差す茜色は足早に伸びて日が暮れるのを知らせていた。母さんとやや距離を空けて座る。右腕は麻酔で異様な感覚だが、痛みを伴う現実と切り離されていた。その分だけ脳の奥が活発に動こうとしている。教師から何を聞いてここにいるのか、想像の答え合わせをしたい。でもそんな不安は無視して、じっと言葉を発さずにいるしかできなかった。母さんも質問を押し殺すように、僕の怪我の具合だけ思い遣った。「部屋の中の象」なんて表現を聞いたことがある。全員が認識しつつ、あえて触れることを避ける議題。並木くんの足跡で汚れたスクールバッグは、まさに象のような迫力だ。母さんはフリースのファスナーを最上部まできっちりと上げている。袖口からは部屋着のTシャツの褪せた色が覗いた。その見窄らしい身形が、僕をより辛く苦しくさせた。

 駐車場に出ると人だかりがあった。担任と並木くんが向き合っている。その隣の女性はきっと並木くんの母親だろう。落ち着いたオリーブ色のスカートと明るい髪色が合っていない。内田先生と養護の先生もまだ帰らずにいた。五人は話している途中の様子だったが、僕らが病院から出てきたことで、一気にこちらに視線が集まった。並木くんの母親は、反射的にこちらに駆け寄る素振りを見せた。

「晃が怪我をさせてしまって、本当に申し訳ありません。」

 甘ったるい声は声優みたいで妙に聞き取りやすい。並木くんにはまったく似ていなくて妙に可笑しかった。しかし、アンタッチャブルにしておいた象にずけずけと触れられたことで、全員から目を背けてしまう。母さんも呆然としたまま、明らかに自分が話す順番が来ても対応できなさそうにしていた。

「学校から保険で医療費は支払えますから、しっかり報告してくださいね。晃もよく怪我をするんで、大変なことはお互い様って思ってます。本当に早くよくなることを祈っていますね。」

 微塵も速まらず自分のペースで話す女に、教師陣は後ろから怪訝な面持ちをしていた。暮れなずむ秋にそっと浮かぶ大人たちの表情は妙に恐ろしい。「ほら、晃も謝りなさい。」と催促されて、並木くんが吃るように「すみませんでした。」と言った。冷たい視線にも耐えて、こちらに寄るでもなく頭も下げないでいる。自分に謝られている様を、大勢に見られていることが気になって、僕は気怠げに笑った。

「僕がバッグを振り回して、バランス崩しちゃったから……。」
まとまらないまま口にしようとすると、母さんはそれを遮るようにぴしゃりと言う。
「今、息子は重傷なので、一刻も早く帰らせたいんです。またの機会に改めてお話しさせてください。」

 僕の背を軽く押して、有無を言わさず車に向かった。反省会の司会役を買おうとしていた担任が引き止めようと声の萌芽を出したが、母さんの背中からある種の強い意志を感じ取ったようで、その声を出し切ることはなかった。後ろから「お大事になさってください。」とだけ言う。母さんは助手席のドアを開けてくれた。僕は居た堪れない気持ちで、伏せ目がちのまま乗り込む。並木くんとその母親の声は聞こえなかった。夕闇も見つめないままでいた。


 家に帰ると充電切れのようにベッドに倒れ込む。母さんが着替えを手伝ってくれたことで、真宙がいつもどんな気分なのか体験できる気がした。僕は利き手が使えず、何をするにももどかしい。食べやすいように晩ごはんにはおにぎりを並べて置いてくれた。母さんが慌ただしく家を片付けているのは、真宙の病院へ戻らねばならないからだ。少しずつ麻酔が切れていく感覚がして僕は大丈夫だからと良い子ぶってみる。父さんからも今日はできるだけ早く帰ると連絡があったから、ベッドの上から動かないで見送った。目を閉じるとすぐに眠ってしまった。
 その晩は右腕を襲う猛烈な痛みに支配された。微熱は体が戦闘体制であることを知らせる。錠剤を流し込まれても子どもみたいに泣きべそをかいた。父さんと二人で過ごすのは珍しいものだ。それでも、だらしなく気の利かない父さんには苛立ちを覚えるし、僕も中学生になった息子として弱みを見せたくない。しかし、痛みに耐えられない幼さに唾を吐きたくても、次の日の土曜日さえほとんど動けないままでいた。ギプスの頑健な壁に隠れた肉塊を恨みつつ、寝不足の日曜日を迎える。


 午前中、電話が鳴った。物憂げに父さんが受話器を取る。眼鏡屋からだった。新しい眼鏡が完成したらしい。数十秒で切った。受け取るのはまた今度にするかと問われても「今日一緒に行きたい。」と即答した。トイレに行くのも辛いというのに、一時間も車に揺られて平気なのかは自信がない。とはいえ、こんな視界不良に満足しているはずもないのに、痛いから行きたくないとは言いたくなかった。何より、父さんと二人きりの週末をこの折れた腕に空気を占領されたまま、弱者として明かすことに気が引けたのだ。
 困惑しながら着替えを手伝ってくれているところで、もう一度電話が鳴った。父さんはそれとなく襟を正した声色に変わる。学校からなんだと悟った。今度は数十秒で切らない父さんの姿を正確に捉えると頻脈になりそうで、あたかもそれに気が付いていないふりをした。電話越しに何度か軽く頭を下げて、静かに受話器を置く。

「学校からだった。とりあえず、車で話そう。」

 端的にそれだけ言って、そこから黙って着替えの続きをした。父さんの深刻そうな面持ちを指摘することもできず、痛みをやり過ごすのに集中することにする。
 後部座席のドアを開けられて、よろよろと乗り込む。どうしても表情を顰めてしまって「眼鏡が欲しいだけなら、お父さんだけで受け取って来てもいいんだよ。」と心配そうに尋ねられた。フィッティングもしてもらうからと、息の多い声で返すものの、マンションを歩いただけで右腕は感電しているように痛んだ。吊り下げに首への負荷が生じるのも邪魔くさい。顔を背けて窓の外にだけ感覚を澄ました。もうすぐもっと見えるようになるのだと言い聞かせる。父さんは無駄な動きなく運転席へ向かい、車をすぐに発進させた。

「さっきの電話で、明日、学校に呼ばれたんだ。」

 カーステレオから母さんの好きなバンドの代表曲が流れ出したところで、父さんはあっさりと話し始めた。明日は体育の日だ。僕の生まれた年から十月十日でなく、十月の第二月曜日に変わった。運動にも祝日にも愛されていないのかもしれないと思わされる。いずれにせよ、明日は休日であるが、父さんは学校に向かうと言う。並木くんとその親がやって来て、担任と今回の事故について話し合うそうだ。親が集まるというのは僕への謝罪を意味する。父さんは「天音は無理に行かなくてもいい。」と諭すように言うが、当人を抜きに勝手に話を付けられたくもない。厳かにいじめを取り扱われるのも気が引けるが、他人の裁量が事実や責任を牛耳るよりは妥当に思えて「大丈夫、僕も行く。」とさっぱり返した。流れていくぼやけた車窓に沈黙が反射する。父さんは、言葉を落とすようにした。

「天音も誕生日に真宙のことがあって辛かったよな。いつも風呂に入れてやったりして、本当にできたお兄ちゃんになったなってお父さんは嬉しいんだ。」

 車椅子が乗せられる広いトランク。母さんと眼鏡を作りに行ったときには気にしなかったその空間に目をやる。真宙を引き合いに出して、取って付けたように僕を褒めたり労ったりする退屈な会話へ、無難な相槌を打った。