剪断(5)

樅木 霊『剪断』(5/7)



 十月十日は、目の愛護デーだと言う。そんな日が誕生日だなんて、実に嫌味たらしい。「十月とつき十日とおか」について調べたのは、「ミレニアムハッピーバカ親」と中傷されたためだった。正月に父さんと母さんの裸体が汗を押し付け合って絡み合うのを想像すると吐き気がした。母さんのスマートフォンの検索履歴を消す方法も覚え、背徳感を抱いて覗く内容は刺激的だった。ところが、いつでも初めに感じた吐き気と繋がって、並木くんたちの稚拙な声までする。数ヶ月のうちにすぐに飽きた。実際の妊娠期間は、十ヶ月と十日間ではなく九ヶ月と少しになると知っても、その忌避感は晴れなかった。真宙は僕の三歳の誕生日ごろに植え付けられたんだろうかと一番無駄な暗算をする。詳しいことは思い出せないが、思い出したいとも思わなかった。

 朝食は誰も起きていない五時ごろに一人でとることにしている。母さんは夜中も呼吸が安定しない真宙を看ているし、父さんは九時に起きれば会社に間に合うが、その代わり帰りは遅い。小学生のころは七時に朝支度をしていたが、寝不足な母さんを虐げているようで良心の呵責があった。そこで、極めて早い時間に出るのを僕の趣味に依るものだと言って、勝手に行かせてくれと頼んだ。こんな自由な朝を過ごしたがる人間であれば、子どもが一人で支度することに両親も少しは罪悪感を抱かなかろう。
 いつもなら父さんが買い置きをしているロールパンだけで済ます。焼くかどうかも気分次第だ。ただ義務みたいに食べる。でも、誕生日の朝であることが理由になるかは不明だが、急に思い立って玉子焼きを焼いてみることにした。あまり見栄えはよくなかったが、切れ端を食べると味はよかった。台所を使ってうるさかったか、母さんが起きてしまったようだった。和室の襖を少しだけ開けて、ベッドの手前に敷いている布団に視線を落とす。眠そうな声で「起きられなくてごめんね、誕生日おめでとう。」と言われた。のろのろと微笑んで「玉子焼き作ったんだけど、もしよかったら後で食べて。ラップして置いとく。」と真宙を起こさないように小声で告げると、母さんは小さく驚いて礼を言った。


「天音くん、今日、誕生日なんだね。ちょうどそんな賞が獲れちゃうなんて最高じゃん。すごいね。」

 図書室に似つかわしくないほど青央くんは興奮気味だった。人気者でもないのにクラスで有名な僕の誕生日。並木くんたちが今日揶揄っているのを聞いて、青央くんは初めて知ったらしい。十三歳おめでとうと、小さく拍手をする様に皮肉は一切なかった。溜め息みたいに鼻で笑って、帰りのホームルームで突然もらった賞状に目をやる。夏休みに書いた作文が県の賞に選ばれたらしい。税金が大事だとか、特に思ってもいないことを中学生然とした筆力に合わせて書いた。あんな軽薄な文章を選出するとは呆れてしまう。自慢げになるのも、幸運だと喜ぶのも面映ゆくて、直ちに賞状を手提げに入れた。折り曲げないと飛び出してしまうが、折り目のないままで持ち帰りたくて、気が付いていないふりをした。どうだってよいことだと謙遜してみせるのも気持ちがよかった。
 眼鏡が壊れた原因を知っている青央くんは、今週ずっと僕を気遣った。黒板は見えているのかと心配し、放課後の図書室でノートを写すのはどうかと申し出た。確かに一世代前のレンズでは、前から二番目の席でも黒板の文字をそつなく読めない。けれど、聞いているだけでそれなりに何を書けばいいかは理解できたし、あまり教養の印象のない青央くんのノートよりは真面だったから、さっと見せ合うだけで終わった。
 それよりは、読書の秋だとか言って、今週、読書部員に課された図書室に飾るポップ制作の方が居残る意味になっている気がする。どの本を選んでも構わなかったが、僕は梶井基次郎かじいもとじろうの全集に編纂された『檸檬』に決めた。五千字余りのそれは、ほんの十五分ほどで読み終わるし、気を抜いても単純な絵と派手な色はそれなりに見栄えするだろうという打算的な選書だ。その甲斐あって、家に持ち帰ったその日中に完成させられた。明日の放課後にある久々の読書部の集会で提出するのを待つだけだ。ところが、青央くんはいつまでも出来上がらないでいた。静かな図書室で呑気に画用紙を広げている人間が、毎日ノートを見せてくれているのなら、僕も手伝うのが筋だろうと、それとなく付き合った。けれど今日は誕生日だし、木曜は五限しかなく、まだ陽は高い。いい加減に断って早足で帰路につくことにした。
 必要以上に優しくしようとする青央くんといるのは気疲れする。望んでいないが、大人に口外しないところからして、親身になるスタイルを取りたいだけに見えた。臆病がゆえの罪悪感の払拭に利用されているだけだと思えてならないが、青央くん自身はその感情に身に覚えがないのかもしれない。ノートや画用紙に見る読みにくい文字はそう感じさせた。

 マンションの入り口で、部屋番号を入力しても返答がなかった。二回目も同じ。鍵を取り出して開けることにしたが、サプライズでもしようとしているのではないかと勘付いてしまった。何か準備をするのに、玄関まで歩く時間はちょうどよい。リアクションには自信がなくて、どうやって喜ぼうかとエレベーターの鏡に覚束ない笑顔を見せつけた。インターフォンを鳴らす。それでも応答がなくて鍵を使った。覚悟して扉を開ける。

「ただいま。」

 廊下の灯りだけが点いている。不審なほどに静かで誰もいないように思えた。リビングの扉を開けるときも少しだけ期待したが、鼻を撲つ刺激で大体のことを悟った。嘔吐物の臭いだ。片付けた後ではあるが、真宙が吐いたんだろう。食器棚が中途半端に開いている。真宙のベッドはシーツが縒れて、布団は下部に追いやられていた。留守番電話が入っていることを知らせるランプが点滅している。母さんの携帯番号を入力した。静かな左耳と緊迫感のある右耳のコールに挟まれる。

────もしもし、天音?

 母さんは、真宙が朝から具合が悪く、昼にはてんかんの大きな発作が起きて入院することになったと早口に報せた。全身が痙攣して顔面蒼白になった真宙が泡を吹いている姿を思い出す。そこまで珍しいことでもなかったが、何度経験してもあの姿を見て冷静にはなれなかった。大発作が起きたら、数日入院する。常々見守る必要のある病児。入院でも付き添いを迫られた。母さんは今日、帰ってこないんだろう。

────学校に連絡するの遅れちゃって、さっき連絡したら、もう下校したって。

 何度も「ごめんね」と口にする母さんに、同じだけ「大丈夫」と返す。「今からおばあちゃん家に行ってもいいよ。どうしたい?」と問われて、それを否定した。祖父母孝行をしたい気分でもない。母さんの電話からは後ろで落ち着かない音が終始していた。早めに切った方がよいんだろうと十分に判る。「お疲れ様ね。」とだけ言った。

 電話を切ると再び静寂が訪れる。呼吸が三回終わるまで、呆然としていた。台所には僕が作った不細工な卵焼きが朝のままの形で置かれていた。汗をかいたラップの上から乱暴に鷲掴んで、ゴミ箱に捨てる。母さんは朝から何も食べていないのかもしれない。真宙もどんな状態なんだろうか。こちらから何も質問をしなかったことに気が付いたが、気に掛けたくもなかった。
 手を洗って、制服を脱ぐ。手提げにある賞状を見ないまま半分に折って、引き出しのファイルに綴じる。下着のままベッドに仰向けになると、背中が汗ばんでいるのに気が付いて不快だった。眼鏡を外す。畳みもせずに、ベッドから手を伸ばして机に捨てる。混迷する視界は穏やかだ。パンツを下げて、陰茎を撫でてみる。まだ毛も生えていないが、真宙のよりは皮も剥けていて雄々しい。しばらく続けるとあっさりと勃起した。感情なんて関係なしにどんどん溜まっていくのを感じる。全身の感覚が下半身で隆盛する。ベッドボードのティシュを指に巻き付けるように数枚取った。苦しんで湧き出る瞬間だけは孤独を称賛していた。


 仕事帰りに真宙が入院する病院に寄った父さんは、二十二時前に帰宅した。それまで僕には一本も連絡がなかった。怒りしか湧かなかったが、口論もしたくない。見てもいないテレビを流してソファに寝転んでいた僕は、もう寝ようとしているところだったと嘘を吐いた。遅すぎる夕食にコンビニ弁当を買ってきていたが、もう夕飯は済ませたとも嘘を重ねた。特に何を食べたのかも訊かれなかった。父さんがスーツから着替えるのも待たずに、自分の部屋に籠る。ベッドで放課後に適当に借りた本を読んだ。軽さだけで選んだポケットサイズの詩集。まったく味わいが解らず、審美眼のない自分に辟易した。
 夜中も三時に差し掛かり、いい加減に空腹を満たしたくなる。寝ている父さんに気づかれまいと、ダイニングテーブルに置き去られた例の弁当をむしゃむしゃ食べた。コロッケはソースがしょっぱくて衣は萎びている。普通は冷蔵庫にでも入れておくのではないかと疑問も浮かんだが、腹も立たなかった。歯を磨きながら、もう今起きたことにしてしまおうかと考えたが、大人しく仮眠を取ることにした。

 いつもの時間には起きられず、慌てて家を出る。学校に着いたのは七時四十分だった。決して遅刻ではないが感覚は同じだ。軽々しい空気が校舎を流れている。顔を上げずに教室へ向かうと、すでに数人の生徒がいた。思ったよりも人数は少なく、ざわついていた胸を撫で下ろす。
 女子と後ろの方で話していた青央くんが驚いた調子で僕の名だけを発した。無邪気に小さく手を振っている。隣の女子は見ないようにして、おはようを返すので精一杯だ。急いで持ち物をロッカーへと片付けている間に、青央くんは僕の方へやってきた。「珍しいね、どうしたの?」と楽しそうにしている。幸いなことに、登校してきた僕に関心のある者は、この教室に青央くんしかいなかった。寝坊して遅くなってしまったと伝えると、別に今も遅くはないと笑う。青央くんは普段よりいくらか盛り上がっているように見えた。
 頑張って完成させたんだと自慢されたポップはやはり冴えていなかったが、隅に描かれた猫の絵は上手かった。赤川次郎の『三毛猫ホームズシリーズ』のポップ。明らかにそこにだけ時間を掛けたであろうイラストを適当に褒める。僕の作ったポップはロッカーの中にあって、すぐに見せることもできた。そうした方がコミュニケーションとして自然であることは言うまでもないが、充満していく朝の活気に気圧けおされて、呼吸が浅くなっている。上手く話せない僕を見られたくない。ここから早く離れなくてはならないのだ。しどろもどろな言い訳をし、走って渡り廊下へ向かう僕を、青央くんは追って来なかった。


 昼休みは、音楽室の前のトイレで着替えることにした。増築したように細々と隣接して建っている校舎の三階にある。音楽室と楽器の倉庫みたいな部屋しかないこのフロアへと、わざわざ昼休みに訪れる者は誰もいない。先週のことがあって、教室で着替える気にはなれなかったのだ。ただ、女子は更衣室で、男子は教室で着替えるとルールがあったから、それを破ることに罪の意識が若干ある。誰に迷惑が掛かるわけでもないけれど、ひそひそとこの場所までやってきた。
 朝のルーティンを飛ばしたためか、むんとした誰もいない廊下が気安い。教室前のトイレと違う硬い引き戸。持ち手の安っぽい金属。開けると独特の臭気が襲った。あらゆる私物や体をこの空気に接着させてはいけないように感じる。足を踏み入れるのも憚られて、どうせ誰もいないのだから、廊下で着替えてしまおうと決めた。逃げも隠れもしないでバッグを置く。もし足音がしてきたらと思うと心臓が圧迫されるようで、とにかく夢中で脱いだ。ジャージの裾が引っかかるのにも寛容ではない。そうやって注意を払う自分が憐れでならなかった。着替え終わっても制服の入ったスクールバッグをロッカーに戻す必要がある。三階から下って、三階へ上るのをもう一度行うのは、かなり億劫に思われて、憐れみは増した。昨日から、いや、その前からずっと、何が楽しくて不吉な塊を育てているのだろうか。火照っているのか、拳を握ると熱っぽい。横になって眠ってしまいたかった。わざと大きく息を吐いてふらふらと歩み出した。
 五限にはバドミントンをする。僕の目は立体視をするのが苦手だと眼科で言われてきた。奥行きを捉えられず、平面的に見えているらしい。生活のなかで気にしたことはあまりないが、球技をすると明確に意識された。今日は誰とダブルスを組むんだろうか。不真面目な奴であればよい。そんなことを考えて微かに駆け足になる。
 一階から二階への間の踊り場で、ジャージ姿で下ってきた並木くんと鉢合わせた。一瞬だけ息が止まる。友だちとおらず一人で歩いているのは珍しく思えた。今日はそれまで彼から話し掛けられていなかったから、突然のことに一切の免疫がない。ぶつかりそうになって舌打ちをされる。

「お、どこ行ってた? 教室で着替えるのやめたの?」

 並木くんは乾いた笑みを浮かべてそう言った。お前のせいだと糾弾したい心境を、指定の場所で着替えなかったという後ろめたさが邪魔をする。並木くんの汚い上履きしか見られない。姿は弓形に歪んでいく。今、ピントが合わないのもお前のせいだ。重たくなったスクールバッグもお前のせいだ。声門が硬直するが、息は少しずつ荒くなっていく。僕を気味が悪いと言う同級生らの意見も理解できる気がした。銃口を突きつけられ齷齪するように、胸中に伸し掛かる際限なき追憶は、暴れ回りたいと熱を溜めている。それは解放でなく決壊だった。
 なんとか固まる体をほどこうとすると、スクールバッグを振り上げて並木くんを打ち叩こうとしていた。あるいは、全身の筋肉を限界まで動かそうとした。非力な低身長の一撃はあっさり躱され、押し出すようにその鞄を蹴られる。受け止めきれない体重に仰け反って、二歩だけ後退すると背中が壁にぶつかった。泣いていた。体が熱い。並木くんも唐突な狂乱に狼狽しているだろう。僕の声は言葉になってもいない。叫びやすいように喉を開いているだけだ。たまに裏声にひっくり返る。滲んだ視界は小刻みに揺れていた。もう一度、両手に力を込め直す。遠心力にバッグを預けると、その重さで僕の方がバランスを崩してしまった。振り払う並木くんの力に抗えず、自分の足に躓いた。全身が宙に浮く。身体中を駆け巡っていた血液が一瞬で蒸発していくような気がした。
 上半身から階段に落ちていく。一瞬で転げ落ちる間にも、体勢がどのように変わっていくのかを理解できるように思われた。さほど回転しないまま滑るように落ちる。右半身が消しゴムみたいに擦り切れた。抗おうとしても一階の床まで、止まることはなかった。頭を打たないように小さくなるのは本能なのかもしれない。気が付くと胎児みたいに丸まっていた。あまりの痛みにさっきまでの叫び声も出ない。全身が傷だらけになっている気はしたけれど、右の二の腕に経験を絶する痛みがして、他は気にならなかった。初めに叩きつけられたのがその部分だ。階段の角と自分の体に挟まれて、何かが弾け飛ぶような音がした。手は痺れて力が入らない。もう一方の手で押さえようとしても激しい痛みはどうにもならなかった。骨折しているんだろう。したことはなくても判った。目を瞑って歯を食いしばっている。周りがどんな状況になっているか気にする暇もなかった。もうどうだってよくなって、埃っぽい床に頬をぴたりと付けた。

「何やってんだ。」

 二階から声がする。内田先生だ。温厚な先生からは聞いたこともない怒号に似た声色を捉えると、他にも多くの生徒の声がしていることに気が付いた。不安定な内田先生の足音がどんどん僕に接近する。名前を呼ぶ声に、応えることも簡単でなかった。