樅木 霊『剪断』(4/7)
十一時。退屈な秋空の強すぎる光が、パワーウインドウにきらりと反射する。眼鏡屋までは車で三十分ほど掛かった。前に住んでいた賃貸のマンションからは近かったのだ。特殊な僕の眼の状態を熟知してくれているから、比較的近くへの引越しくらいでは店を変えたくなかった。僕の荷物は壊れた眼鏡を入れたケースだけ。膝の上に置いている様は、いかにも貴重なものを守っているみたいだ。怪我をした雛鳥を運んでいるイメージと重ねて、そんなによいものでもないかと棄却した。
風呂用の眼鏡では何もかもがぼやける。街中の看板も車のナンバーもどれもが読めなかった。たった二年でこれほど視力が落ちたのかと痛感するためだとしても、三十分は長すぎる。半分を過ぎたくらいで腑甲斐なさに押し潰される頃合いだった。成長期に近視が進むのは仕方がないと言われていたが、それでも眼鏡を掛けた他の子はここまで悪化しないのだから悔しさはあった。
「久しぶりに二人だね。お昼、どこかで食べてから行こっか。」
前を向いたまま質問する運転中の母さんの横顔を見つめる。ふわりと巻かれた黒髪から明るい色の口紅が見え隠れした。一度頷いてから、それでは意味がないかと慌てて「いいね」と口に出す。助手席に座ったのは間違いだったかもしれない。母さんとドライブデートをしているみたいで気恥ずかしかった。
ファストフード店かラーメン屋かと思っていたが、昔は常連だった小さな洋食屋に久しぶりに行きたいと母さんが言った。喫茶店のような年季が入った店内には、ジュークボックスなるものが置かれていた。何をする機械なのかは知らないが、ビビットなネオン灯だけは今でも印象に残っている。僕が物心つく前のころ、毎週のように通ったらしい。最後に行ったのは六年前、真宙が長期入院しているときだった。そういえば真宙は行ったことがないはずだ。そうやって口に出そうかと思ったけれど、今は真宙の名前を出したくなくて、楽しみだとだけ伝え、印象派の車窓を眺めておいた。
見慣れた道が増える。前の小学校は家から近かった。通学路は車で通ると一瞬だ。さらに狭い路地に入ると唐突に存在する洋食屋。店名は何語かもわからず、聞いたところですぐに忘れてしまう。店の前の一台だけのスペースに何回も切り返してようやく駐車した。軽快な車のロック音。母さんがアーチ状の木製の扉を開くと、ささやかにドアベルが鳴る。「段差があるよ。」と後ろにいた僕に注意をしてくれる。真宙が来たことがない理由に気がついた。その段差に大股で踏み込むと、洋食屋らしい匂いがした。焼けたチーズの匂いだろうか。もうずっとこびり付いているみたいだ。窓側の席に座る。
「あら、高平さんの奥さん。天音くんかい。大きくなったねぇ。」
水とメニューを渡しにきた店主に話しかけられた。内田先生をさらにダンディにしたような風貌に思える。店主とまで仲がよかった記憶はないが、母さんが普通に挨拶をしているから特別なことでもないんだろう。僕の身長はかなり低いが、小学一年生のころよりは大きくなった。そんな戸惑いを隠せずに「ありがとうございます。」と独り言みたいに言った。些細なコミュニケーションに緊張した様子を母さんに見られたことが照れ臭い。店主が厨房に戻っても、微かに速いままの脈を気付かれないように、メニューへ注意を向けた。文字を読むには随分顔を近付けてしまう。それに気が付いたのか、いくつかのランチセットを母さんが読み上げた。ランチと言えど、どれも千五百円以上することは先に見えていた。これから眼鏡まで買ってもらうのだ。素直に選ぶ気にはなれなかった。母さんは優柔不断な僕を揶揄うように笑む。
「お母さんは、ハンバーグもカニクリームコロッケも食べたいから、天音がよかったら半分ずつ交換してほしいな。一人でオムライスとかを食べたかったら、それでもいいよ。」
カニクリームコロッケがよかったけれど、一番高いから遠慮していた。「分けるのでいいよ。」とだけ言うと、母さんは嬉しそうに振る舞ってくれた。注文している間も声は出さないで、少し奇抜な緑色の窓枠の形を見ていた。
「新しい眼鏡、どんなのにしようか。中学生だし、前のよりもうちょっと大人っぽいやつがいいかな。」
昼食には少し早い時間。客は僕らしかいなかった。母さんと向かい合って話すのはいつぶりだろうと、ふと考えた。料理を待つ時間はそれなりに掛かるはずだ。後ろめたさがあって「眼鏡壊しちゃって、ごめんね。」と目を合わせないで言う。
「仕方ないよ。わざとじゃないんだから。それに、あのフレームもちょっと小さくなっていたし、レンズだってそろそろ見えなくなってきてたんじゃないの?」
その悪童をまとった顔は、同い年だったら苦手のはずだ。どうせ後で検査をすればわかることだから、素直に「バレてた?」と頭を掻いてみる。母さんは「最近、目を細め始めてたからね。」と僕の額を人差し指で軽く押した。二人だけの空間に心が弛んでいく気がした。その後、母さんがスマートフォンで「眼鏡 フレーム」と検索し、色々な画像を一緒に見た。そこまで思ってもいない注文をあれこれ付けて、気に入りのフレームを探した。「天音にはこんなの似合うよ。」と洒落たフレームを指差してくれるのも気分がよかった。
サラダとスープが運ばれる。話がおしまいになるのは惜しかったが、嗅覚への甘美な刺激に自然と表情が明るくなった。食い意地が張っているように思えて、口角が上がるのを抑えようとしたが、僕以上に大きな反応をする母さんを見て余計に笑えてしまう。サラダは、柔らかそうなレタスに、髪の毛みたいに細いにんじん。脇にはグリルしたナスとパプリカ。それと、イチジクが入っている。果物としてしか食べたことがなかったけれど、塩味の効いたオイリーなドレッシングにもフィットした。挑戦的なサラダに比べて、ブイヨンのスープは大人しく、非常に重心が低く思える。小さな木材のスプーンで口元に運ぶたび、行ったこともないヨーロッパの田舎町が思い浮かんだ。
味の感想を母さんと言い合うだけで有意義だった。スープも冷めないうちに、メインディッシュがやってくる。皿の金の縁取りには高級感があった。カニクリームコロッケが僕の方に置かれる。元気よく挙手をしたまま揚げられたような見た目も好きだった。蟹とオーロラソースの暖色のコントラストに見惚れている間に、母さんは丸く膨れたハンバーグをナイフで切って、明らかに大きい方を僕にくれた。見るからに濃厚そうなデミグラスソース。肉汁と分離しながらも少し混ざって色が薄くなる。二つあったカニクリームコロッケは、どちらも同じ大きさにしか見えないけれど、できるだけ大きいと思う方をあげた。ナイフで切るのがもったいなくて、サクサクの衣を一口|齧ってみたかった。行儀を気にして母さんに断ると「火傷しないでね。」と見守られた。フォークで刺すとクリームがフライングしてほんの少し漏れ出す。恐れながらおもむろに歯を入れると確かに熱くて声が出た。母さんが笑う。思い描いていた液状の感触ではなく、蟹の繊維質を明瞭に感じた。おいしさを語る僕は饒舌で、母さんはひたすら頷いていた。オーロラソースの代わりに、ハンバーグのデミグラスソースを付けて食べるのも絶品だった。
男のくせに食べるのが遅く、母さんには柑橘のシャーベットを待たせてしまった。食べ終わると同時に二組の客が来て、それだけで一気に混んできたように思えた。水を運びにきた店主を厨房に帰す前に、母さんは会計を済ませる。なんとなく離れて金額を見ないようにしていた。扉の前で店主に、扉から車までの数歩の間で母さんに、食べ終わったときとは違う調子の「ごちそうさまでした」を言った。外の空気は排気ガスと郊外特有の土の匂いがする。それも新鮮に感じられた。「おいしかったね。」と言う母さんに「ね、幸せ。」と返す。ぼやけている視界のせいもあって、全部が夢見心地だった。母さんの表情はよく見えなくても、家にいるときと違う明るい声に満たされた。眼鏡屋にはその余韻を味わうまでもなく、すぐに辿り着く。
小さな個人店の眼鏡屋。車が来たのを見ていたのか、入り口付近でいつものふくよかなおばさんが出迎えた。中谷さんだ。黒染めされたボブカットにグレーのスーツ。高級そうな淡いピンクの眼鏡を掛けている。品はよいが化粧は濃い。近寄ると外国っぽい香水の匂いがした。僕が泣きじゃくって眼鏡の調整が上手くいかなかったころから知られているから、格好つけるわけにもいかなくて無口になった。挨拶の直後に、母さんは壊れた眼鏡を見せて説明をした。その間、僕は伏せ目がちに押し黙って、壁一面のガラス棚に並べられた眼鏡を眺める。よくよく考えると、この眼鏡を作ってくれた人に壊してしまったと見せているわけだ。修理できそうにないと残念そうに丁寧な敬語で話す中谷さんに、心なしか引け目を感じた。
新しい眼鏡を作るしかないのは知っていた。早速検査をしようと、奥の方に通される。社長みたいな革張りの椅子は僕には大きい。中でレンズががちゃがちゃ変わる無骨な機械を隔ててスクリーンがある。そこに平仮名が並んでいるんだろうが、今の僕には読めなかった。母さんは後ろのベンチに座っているが、その位置からでもどんな検査をしているのか見えてしまいそうだ。大きな指標に「わからない」と言い続ける無様を見られては、心配を掛けるだろうと毎回不安だった。
「じゃあ、測っていきますよ。眼鏡は外してここに置いてね。」
紫のベルベットが張られた浅い箱を差し出している。中谷さんは僕だけと話すときは子どもに喋るような口調に変わる。座高に合わせて機械の高さを下げるが、ゆったりとしか動かないせいで時間が掛かった。生返事をして、言われた通り眼鏡を外す。箱の紫色は溶けるように平坦になり、すぐに二つに分離した。右眼がどんどん外側に逸れていくのを感じる。素早く三回瞬きをして、見えていたときに保存しておいた感覚を頼りに適当に眼鏡を置いた。器具の小さな穴を覗くため、額を付けるように言われたときも何度も瞬きした。
以前の検査記録により次々と強い度数のレンズに切り替えられる。散乱する光が徐々に「い」の文字へと集約された。壊れた眼鏡と同じ度数だと言われても比較的大きな文字しか読めず、密かに取り乱す。やはりこの瞬間が嫌いだ。何が正解かもわからない問題を解かせられ、自分が劣等生であることだけを思い知らされる。曖昧な答えを言うときは、舌が上手に回らなかった。
十五分ほど検査をして、近視を五段階、乱視を二段階ほど強くする必要があると言われた。瞳から拳一つ先でさえ、遠すぎて焦点が合わないという度数だ。予想していたよりも悪い結果に息が漏れる。後ろの母さんからも同じような声がした。中谷さんだけが明るく「眼鏡が壊れていなかったとしても、作った方がよい頃合いでしたね。」と、励ましのように言った。しかし、そんなレンズでも、視力は十分には出ない。大きな屈折力は、眼球とレンズの僅かな隙間でも像を極めて小さくする。僕にはすべてのものが二割ほど小さく見えているらしい。そのせいでピントが合っていても、視力は出づらくなるのだ。
中学生になったことだし、眼科に行ってコンタクトを処方してもらえば、もう少し見えるようになると助言をされた。その話にはいつも乗り気になれない。僕の度数では使い捨てのコンタクトは売られていないし、右眼が外を向くのは眼鏡でないと治せないから、どうせその上から掛ける眼鏡も要るのだ。僕はこれくらい見えれば大変美しい世界に感じられる。分厚いレンズで目がちんちくりんに見えるのも気にしてはいるけれど、整った顔立ちでもないのにファッションを気にする人間だと他人に思われるのも御免だった。
検眼用の眼鏡はスチームパンクの雰囲気があって好きだ。引き出しに並ぶ大量のレンズのなかから目的のものを何枚か入れ、阿呆面でキスでもするように待っている僕に掛けてくれた。その瞬間に中谷さんの表情がくっきりと結ばれる。何枚ものレンズで歪み方は甚だしいが、眼球に掛かっていた力が抜けて楽になっていくのを感じた。凄まじく重たいせいで鼻から滑り落ちそうなのに気を付けつつ、母さんの方を見る。別にそんなこともないけれど、その顔を久しぶりに見た気がして口元が緩んだ。「よく見える?」と訊く母さんが格段と優しそうに見えて、はにかんで肯定した。
僕みたいなレンズは工場からの取り寄せになるが、来るのは早くても一週間後とのことだった。中谷さんはそれまで僕には風呂用の眼鏡しかないという事実を非常に気に掛けている様子だ。確かにこの視界を体験すると、今日の僕は何もかもが見えていなかったと感じる。
「そうだ、前回はレンズ交換でしたから、以前までご使用なさっていたレンズが、残っていると思います。この大きさなら、お使いのフレームに入れられると思うので、いかがでしょうか。」
眼鏡の加工料もサービスでしてくれると言った。それでも0.1くらいしか得られないだろうが、今のものよりはよい。風呂場でも見えやすくなるから一挙両得だ。加工している間に、検眼用のレンズで気持ち悪くならないか確かめながら、フレームを選んでおくようにと言って、中谷さんはカウンターの向こうに行った。スチームパンクなそれを何度も掛け外しすると壊してしまいそうだ。気になるフレームをいくつか選んで、まとめて掛けることにした。検査の結果で落ち込んでいた共通認識を断ち切るように、母さんは楽しそうにフレームを選んだ。大人向けどころか高齢者の客が多い眼鏡屋だ。僕が掛けても違和感がなさそうなものは限られている。でも、どれも上品で分厚いレンズが入っていない状態なら魅力的に思えた。いつもは最低の価格帯のフレームしか候補に挙げられないが、今日の母さんは数万円高価なフレームも「これもいいんじゃない?」と促した。僕の場合、表示価格に特殊なレンズのオプション料がぐっと乗る。「でも、これ、高いよ。」と困惑して囁くと、「もうすぐ誕生日だし、誕生日プレゼントだと思って。」と母さんは微笑んでいた。来週の木曜日は僕の誕生日だ。頬が熱くなる感じがした。
洋食屋で話したことを踏まえて、いくつか母さんが見繕っていたが、僕は深い緑色のメタルフレームが気になった。気に入りの縹色のフレームと同系色でありつつ、金属の光沢とより一層暗いトーンから色気さえ感じる。とても小さな円形に近いオーバル型。繊細でいて凛々しい。結局、唯一自分から選んだそのフレームに決めた。よく似合ってると言う母さんの声は嘘っぽかったが、悪い気はしなかった。

